『豊臣兄弟!』浅井長政を支えた浅井三将・海北綱親とは?忠義に生きた勇将の実像:2ページ目
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実はとっくに討死していた?
以上が海北綱親の、かなり駆け足な生涯となります。しかし綱親の没年については異説があるそうです。
実は海北綱親が天文4年(1535年)時点でとっくに亡くなっていた……どうして30年以上もずれているのでしょうか。
この両説にはそれぞれ根拠があります。
- 天正元年(1573年)説
→海北友雪(綱親の孫)が描き、海北友竹(同曽孫)が讃を書いた「海北友松(ゆうしょう)夫妻像」
- 天文4年(1535年)説
→京極氏が発給した感状
感状には、浅井亮政(長政の祖父)が京極家臣の多賀貞隆(たが さだたか)を夜襲した際、海善(海北善右衛門の略)が討死したことが記されています。
……前者は子孫たちが祖先の伝承をまとめたもの、後者は戦国当時の一次史料です。
史料的に見れば、後者の方が信憑性が高いと言えるでしょう。
しかし善右衛門の通称は代々受け継がれた屋号のようなものでした。なので、それが必ずしも綱親を指しているとは限りません。
例えば天文4年(1535年)には先代の海北善右衛門(綱親父)、天正元年(1573年)には綱親が討死したとも考えられるでしょう。
あるいは綱親は天文4年(1535年)時点で討死、天正元年(1573年)には綱親の子が討死した可能性もあります。
果たして真相はどうだったのか、今後の究明がまたれますね。
終わりに
今回は浅井三代に仕えた浅井三将の一人・海北綱親について紹介してきました。
長政の代には既に故人だった説もあるものの、いずれにしても代々討死するほどの忠臣であったのは確かでしょう。
綱親の死によって五男の海北友松(ゆうしょう)は仏門に入り、やがて絵師として大成するのでした。
※参考文献:
- 杉本苑子ら『水墨画の巨匠 第4巻 友松』 講談社、1994年7月
- 『東浅井郡志 巻2』滋賀県東浅井郡教育会、1927年
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