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戦国時代、織田信長の「比叡山焼き討ち」本当の理由は宗教弾圧ではなく“脱税の摘発”だった!?

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宗教弾圧ではなく経済改革

ここまで読めばもうお判りでしょう。この巨大な経済勢力を解体したのが織田信長だったのです。

信長の延暦寺焼き討ちは、教科書ではよく「言うことを聞かなかった寺を怒って焼いた」と説明されますが、実際には上述のような社会構造について知っておかないと説明がつかない出来事だったのです。

もともと、信長は以前から比叡山の荘園を没収しており、対立は避けられない構造でした。

当初は彼も比叡山に対して「朝倉に加担しなければ領地を返す」と譲歩していました。しかしそれでも比叡山は朝倉軍に味方したため、信長を激怒させたのです。

信長の狙いは、寺社の軍事力だけではなく脱税によって肥大化した経済支配を終わらせることにありました。

寺社が税を払わずに富を独占し、国家財政を圧迫している状況を彼は容認しなかったのです。

彼の延暦寺の焼き討ちには、国家の税体系をゆがめていた巨大脱税システムを破壊するという明確な意図がありました。延暦寺焼き討ちは宗教弾圧ではなく、経済構造の改革だったと言えるのです。

ちなみに元亀二年の焼き討ちでは『信長公記』でも「雲霞の如く焼き払った」と記されており、数千人が殺害され、延暦寺の記録も多く失われたとされています。

とはいえ地質調査では大規模な焼失の痕跡は見つかっておらず、実際には大量の薪を燃やして煙を発生させ、恐怖を煽る心理戦を行った可能性が高いと考えられています。

比叡山は正面から攻撃を受けた経験がほとんどなく、煙に包まれた光景だけでパニックに陥り、早期に降伏したと推測されるのです。

こうして見ていくと、信長の「比叡山焼き討ち」の実態は、いろんな意味で一般的なイメージとは大きく異なることが分かるでしょう。

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 参考資料:
大村大次郎『脱税の日本史』宝島社、2024年
画像:PhotoAC,Wikipedia

 

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