鎌倉武士は“脱税集団”だった?源頼朝が見抜いた朝廷支配のほころび〜鎌倉幕府の誕生:2ページ目
脱税の合法化
さて、上述のような軍事貴族の中で、源氏よりも先に天下を取ったのげ平家です。有名な平清盛は、武家を朝廷の枠内に組み込み、土地の支配権はあくまで朝廷にあるという姿勢を崩しませんでした。
しかし、伊豆での流人生活を終えて立ち上がった源頼朝は、清盛とは全く逆の方針を取ります。
頼朝は東国武士たちに対し、彼らがこれまで行ってきた脱税行為を、正式な権利として保証することを約束したのです。この方針が、武士たちの支持を集め、頼朝は平氏をしのぐ軍勢を率いることができました。
頼朝は朝廷によるシステムの欠陥を冷徹に見抜いていたのです。
寿永三年の交渉では、武士への恩賞は朝廷ではなく頼朝が直接行うという要求を突きつけました。武士を朝廷の給料システムから完全に切り離したのです。
言うまでもなく、これは武家独自の統治体制を作ろうとする重要な布石でした。
さらに文治元年、頼朝は朝廷から守護・地頭の設置と、兵糧米の徴収権を認めさせることに成功します。
※関連記事:
小学校で習う「守護・地頭」は何者だったのか?鎌倉幕府が朝廷から“土地と税”を奪った仕組み
守護・地頭が生まれるまで鎌倉時代の守護や地頭は、小学校でも習う言葉ですが、実際にはとても分かりにくい存在です。領主とどう違うのか、役人なのか、それとも武士なのか……と疑問が尽きません。…
後者の兵糧米徴収権の実態は独自の税金を徴収する権利であり、収穫量調査などの会計検査権も伴っていました。
こうして地方の財源は実質的に武家のものとなり、頼朝は鎌倉幕府成立の決定的な基盤を握ることになったのです。
さらに守護・地頭を全国に派遣することで、武家は地方支配を強化し、もはや朝廷が口出しできない体制を完成させたのでした。

