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『豊臣兄弟!』信長は何を恐れた?清洲を離れ小牧山城へ移った理由と「ある武将」の存在

『豊臣兄弟!』信長は何を恐れた?清洲を離れ小牧山城へ移った理由と「ある武将」の存在:2ページ目

尾張統一と美濃攻略のために築かれた城

1562年(永禄5年)から1563年(永禄6年)にかけて、尾張と美濃の関係は比較的穏やかに推移していました。この間、信長は犬山城を攻略して織田信清を追放し、ついに尾張統一を成し遂げます。さらにその先、美濃を奪取するための長期的な戦略を着実に描いていきました。

その象徴ともいえるのが、1563年(永禄6年)に着手された小牧山城の築城です。もちろん、この城が犬山城攻略を大きな目的としていたことは間違いありません。しかし、犬山を落とせば次は美濃へ、その流れは誰の目にも明らかだったことでしょう。

ところが、稲葉山城にいる龍興とその側近たちは、つかの間の平穏に気が緩んでいたように見えます。武田信玄との同盟関係に安心していた面もあったのかもしれませんが、信長への備えは次第に薄れていきました。

そんな中で起こったのが、菩提山城主・竹中重治(半兵衛/演:菅田将暉)と、北方城主・安藤伊賀守(守就)による稲葉山城占拠事件です。斎藤家の将来を憂えた二人は、実力行使によって龍興を諫めようと行動に出たのでした。

信長は重治に対し、稲葉山城を明け渡すよう求めますが、重治はこれに応じません。そしておよそ半年後、城は再び龍興の手に戻されます。小牧山城は、まさにこうした時代背景の中で築かれた城だったのです。

清洲にかわる新たな本拠地であった小牧山城

『豊臣兄弟!』第5話の舞台となった小牧山城は、信長が「火車輪城(ひぐるまわじょう)」と名付けたと伝えられています。

その縄張りを見ると、円形の小丘陵を取り囲むように、火を振り回したかのような同心円状の帯曲輪がめぐらされていることが分かります。この形状は完全な円郭式ではないものの、どの方角から攻められても対応できる、当時としては画期的な構造でした。

さらに発掘調査によって、南西中央には一直線に伸びる登山道(大手道)が存在していたことも明らかになっています。これは、後に築かれる安土城と共通する特徴でもあります。

山頂には巨石を用いて三段に築かれた石垣があり、その上の本丸には信長と妻子たちが暮らす天守風の建物が構えられていたと考えられています。

また、清洲城からの移転にともない、家臣たちの居宅も移され、山麓南側には城下町が整備されました。その規模は南北約1.3キロメートル、東西約1キロメートルにおよび、碁盤目状に道路が通されていたことが分かっています。

城下町の内部には短冊形の地割が施され、区画の境には下水設備まで備えられていました。発掘調査からは、当時としては非常に先進的な都市インフラを持つ町であったとされます。

これらの事実は、小牧山城が単なる犬山城や美濃攻略の前線基地ではなく、清洲に代わる新たな本拠地として構想されていたことを物語っているのです。

3ページ目 斎藤方の手強さを痛感していた信長

 

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