【豊臣兄弟!】藤吉郎は「恩」を忘れない!主従は逆転しても恩は消えず…松下之綱との強い絆:3ページ目
主従は逆転しても、互いを大切に
すっかり出世した藤吉郎と再会したとき、之綱はどんな思いを抱いたでしょうか。
「あーあ、すっかり逆転されてしまったな」と思ったでしょうか。
それとも「昔は目をかけてやったのだから、これだけの出世に相応しい恩返しを期待しよう」でしょうか。
よもや「これからは猿に仕えねばならんのか……屈辱じゃのぅ」などとは思わなかったと思いますが……。
正解は当人に聞くよりないものの、恐らくは藤吉郎の立身出世を、心から喜んだことと思います。
ともあれ快く藤吉郎改め秀吉の家臣となった之綱は、天正3年(1575年)に武田勝頼を迎え撃った長篠合戦において、百の兵を率いて秀吉の前備を務めました。
やがて天正10年(1582年)に織田信長(小栗旬)が本能寺で横死を遂げると(本能寺の変)、秀吉は織田政権の権力を巧みに奪い獲っていきます。
之綱は天正11年(1583年)に丹波国船井郡(京都府京丹波町など)・河内国讃良郡(大阪府四条畷市など)に2,000石の知行を賜わり、のち伊勢国(三重県)の1,000石を加増されました。
天正15年(1587年)の九州平定・島津征伐では秀吉の前備として兵百五十を率いて護衛。厚く信頼されていたのでしょう。
しかし前備の中には、之綱の指揮下に置かれることを快く思わなかった者もいたようです。何ゆえあやつがそれがしの上役なのか……不満の声を感じ取った(あるいは之綱から相談を受けた)秀吉は、不満を持つ者らにあてて朱印状を発給しています。
……松下加兵衛事、御牢人の時、忠節の仁に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候……
【意訳】松下加兵衛はわし(秀吉)が牢人していたころ、とても親切にしてくれた恩人なのじゃ。よってそなたらと同格と思ってはならんぞ。
やはり秀吉は若いころに受けた恩義を忘れておらず、主従が逆転してもお互いを大切にしていたのです。
