【豊臣兄弟!】藤吉郎は「恩」を忘れない!主従は逆転しても恩は消えず…松下之綱との強い絆:2ページ目
流転の末に藤吉郎と再会
永禄3年(1560年)に桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られ、家督を今川氏真(うじざね)が継ぐと、最早これまでとばかり今川家を見限る者が続出しました。
父の長則もそんな一人だったのか、槍を担いで国を飛び出していったものと思われます。
いっぽう之綱は今川家に対する忠義の態度を変えることはありませんでした。が、寄親(寄騎の上役。対語は寄子)である飯尾連龍が今川家に叛旗を翻してしまいます。
永禄6年(1563年)に今川方が頭陀寺城へ攻め込み、炎上。之綱は城を追われてしまいました。
やむなく之綱は今川家より独立した徳川家康(松平元康。松下洸平)に仕えますが、新参者が敵の最前線に立たされるのは世の常というもの。之綱はかつての主君であった今川家との死闘を強いられました。
永禄12年(1569年)、氏真が立て籠もった最後の拠点・掛川城(静岡県掛川市)へ攻め込んだ時は、敵将の菅沼帯刀(すがぬま たてわき)を討ち取る武功を立てています。
これによって之綱は遠江国長上郡(静岡県浜松市など)に30貫文(約30石)の知行を賜わりました。
しかし今川家が滅亡した後、東進する徳川家の行く手を阻む武田家との対立は避けられません。そこで之綱は高天神城(静岡県掛川市)の守備を任され、武田勝頼(信玄の後継者)と対峙することになります。
天正2年(1574年)に高天神城が攻め落とされると、之綱は捕虜となってしまいました。経緯はわかりませんが後に解放された之綱は、羽柴秀吉と改名していた藤吉郎から仕官の誘いを受けたのです。
