大政奉還=幕府の終了…ではなかった!欧米が“正統政府は徳川”と見ていた複雑な事情とは?
大政奉還後も外交をしていた
教科書で習う明治維新の話と、実際に起こったことの間には大きな違いがあります。
その最たるものは、大政奉還によって徳川幕府による統治が一気に終わったと思われがちなことが挙げられます。現実はもっと複雑でした。
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慶応三年(一八六七年)十二月九日、薩摩藩を中心とする倒幕派が朝廷でクーデタを起こし、王政復古の大号令を出しました。
しかし、これで徳川幕府がすぐに消えたわけではありません。新政府と旧幕府という二つの政権が同時に存在する状態が続いたのです。
これについて、特に注目すべきは外国の反応です。欧米各国は新政府をすぐには認めませんでした。
なんといっても徳川慶喜は大号令の一週間後には、大坂城でアメリカ・イギリス・フランスなど六か国の公使と会談し、内政不干渉の約束を取り付けているのです。
これでは外国から見れば、まだ幕府が正統な政府だと思われても無理はないでしょう。
パークス、断る
他にも、こうした認識のズレを象徴する出来事がありました。
戊辰戦争の最中、長州藩士がイギリス公使パークスに負傷兵の治療を頼んだ時のことです。パークスは「今日の政権は徳川にある」からと、これを断りました。
このパークスの発言は重要な意味を持ちます。
国際法上、革命政権が生まれても、前の政権との条約や約束が自動的に引き継がれるわけではないのです。
実際、明治天皇への各国の信任状提出は遅れました。イギリスが一八六九年五月、フランスが同年六月と、戊辰戦争が終わってからのことだったのです。
致命的だったのは、朝廷には外交の専門家がいなかったことです。大政奉還後も、江戸開市の延期や新潟開港の件など、実際の外交業務は幕府が続けていました。
外国にとっては「政権は朝廷に移ったのに、なぜ外交は幕府がやるのか」と思われても仕方ないような、奇妙な状況だったのです。



