2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──豊臣秀吉・秀長の主君・織田信長の安土城、登城レポート【後編】:2ページ目
大手門を守る秀吉と利家の屋敷跡
大手門跡から大手道を見上げると、まず目に飛び込んでくるのが、道の左右にそびえる石垣です。登っていくにつれ、その石垣の内側に広がる敷地が、いく段にもわたって削平されていることが分かります。
向かって右側が伝前田利家、左側が伝羽柴秀吉の屋敷跡とされており、屋敷跡の門跡にはそれぞれ石製のレリーフが設置され、復元図が刻まれています。大手門をくぐるとすぐに秀吉と利家の屋敷があり、大手門の守りを固めていたという伝承は興味深いものですが、あくまで伝承であり確証があるわけではありません。
ただし、この左右に配置された屋敷はいずれも大きな楼門を備え、大手門方面に向けて弓や鉄砲を放つための狭間を穿った塀が設けられていたと推測されています。
こうして大手道をおよそ180メートル登ると、突き当たりに石垣が現れ、直線的に続く大手道はここで終わります。ここから先は本丸に近づくにつれ、七曲りと呼ばれる屈曲した道となり、その左側にはかなりの高さを誇る石垣が築かれています。
城内中心部への入り口である黒金門
大手道を上り切ると、本丸など主要部へ通じる入口である黒金門跡に到達します。その手前には、伝織田信澄屋敷跡と伝森蘭丸(森成利)屋敷跡が並んでいます。大手門を羽柴秀吉と前田利家が守ったとされるなら、黒金門を守ったのは信澄と蘭丸ということになります。
ご存じのように、蘭丸は信長の寵愛を受けた近習で、本能寺の変でも信長と運命をともにしました。一方の信澄は、かつて信長が謀殺した同母弟・信行の嫡男で、信行が暗殺された当時は幼少であったため命を救われています。成長後は一門衆として信長の側近に取り立てられ、安土城の普請奉行を務めるなど厚い信頼を得たと伝わります。
つまり、もしこれらの伝承が正しければ、安土城の中核部の守りを任されたことからも分かるように、蘭丸と信澄は信長からきわめて篤い信頼を寄せられていたことになるのです。
大小の石を整然と積み上げた石垣が、壮大な食い違い虎口の姿を今に伝える黒金門跡ですが、発掘調査の一つの見解として、「大手道は山麓から本丸へ一直線に伸びていた」という説があります。もしこの説が正しければ、黒金門は本丸へ至る門ではなかった可能性も浮上します。
とはいえ、現在の遺構の状況から見れば、この門跡をくぐってこそ安土城の中枢部へ進むことができるわけです。ここから先は、いよいよ天主へと続く領域へ足を踏み入れていくことになります。



