朝ドラ「ばけばけ」兄・錦織友一(吉沢亮)が若くして病没…錦織丈(杉田雷麟)のモデル・西田精の生涯:2ページ目
兄の死と困窮を乗り越えて…精は工学者の道をゆく!
中学を卒業した精は、次の進路として熊本の第五高等学校を選びます。
同校でハーンは英語講師をしていましたが、入れ違いで東京帝国大学の講師となっています。
しかし第五高等学校時代、精は危機に直面しました。
明治30(1897)年、兄・千太郎が若くして病没。経済的な後ろ盾を失ったことで学資に困窮することとなります。
それでも精は親戚や千太郎の知人からの援助でなんとか学業を続け、翌明治31(1898)年に第五高等学校を卒業。東京帝国大学工科大学・土木工学科に進学を果果たしました。
同大ではハーンが英語講師としており、ここで旧交を温めたものと思われます。
明治35(1902)年、精は無事に帝国大学を卒業。明治41(1908)年には同大の助教授となって、後進の育成にあたりました。
明治43(1910)年には独・英・米へ留学。研究の主軸である土木と衛生工学において最新の知見に触れたようです。
大正2(1913)年、帰国後に九州帝国大学教授に就任。衛生工学を牽引する立場となりました。
大正4(1915)年には工業博士の学位を取得。工学者として学界での確かな地位を築きます。
一方で精は地域社会との関わりを重要視していました。
学内一般観覧では、200名余りの聴衆に「水道ノ話」と題する公開講演を実施。学問と社会とのつながりを大事にしています。
大正14(1925)年ごろには、故郷松江市のために助言を行うこともありました。
当時、松江では給水人口が増加。そのため夏期の断水や給水制限が起こっていました。
精は専門家の立場からろ過池の増設や送・配水管の増設を助言。松江市はこれを受けて対策を実施しました。
その後も関与は続き、昭和8(1933)年付の精の書簡が残ります。
松江市は「水道拡張の際にはいつも西田の助力を仰いだ」と総括しており、第二期拡張(新大橋を越え南北田町方面へ送水)の技術的相談にも応じていたことがわかります。
精は大学に拠点を置きながら、都市インフラの現場課題に向き合った「実務派の学者」としての顔も持っていました。
そこには専門家としての矜持や、かつて過ごした故郷を思う気持ちがあったのかも知れません。
精は松江だけでなく九州各地の上下水道整備に技術的に助言。戦中をも息抜きました。
昭和21(1946)年、精は病没。享年70。故郷や国家の発展、そして人々の生活を守るために生き抜いた生涯でした。
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