【べらぼう】史実では再婚する歌麿(染谷将太)。愛妻を喪い、蔦重を捨てた後、孤独ではなかった
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でも描かれたように、寛政2年(1790年)8月26日、喜多川歌麿(染谷将太)は愛する妻・きよ(藤間爽子)を喪ってしまいます。
劇中ではすっかり腐敗し、朽ち果てていく愛妻の遺体を、嬉しそうに観察・描写する歌麿の狂気が視聴者を戦慄させました。
そんな歌麿を見かねて現実を突きつけた蔦屋重三郎(横浜流星)と亀裂が入り、一度はなし崩し的に和解するものの、ついには決別に至ります。
「蔦重とは、終わりにします」
蔦重と決別した後、歌麿はずっと孤独だったのでしょうか。それとも、新たなパートナーを見つけたのでしょうか。
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孤独ではなかった?歌麿の家族
東京都世田谷区の専光寺に眠る歌麿。彼の墓には「理清信女」と「蓮室涼圓信女」という二人の戒名が刻まれています。
前者の「理清信女(りせいしんにょ)」は、劇中に登場した「きよ」のモデルとなった女性でした。戒名は俗名(生前の名前)から文字をとることが多く、役名の「きよ」は、この理「清」信女からとったのでしょう。
後者の「蓮室凉圓信女(れんしつ りょうえんしんにょ)」は、娘とも後妻とも言われており、俗名は「すず」だったのかも知れませんね。彼女は文政8年(1825年)に亡くなりました。
※余談ながら、戒名の長さはお寺に積んだお布施によって変わります。恐らく前者が亡くなった時期はまだ歌麿が貧しく、後者が亡くなった時期には、歌麿が裕福になっていたことで違いが出たのでしょう。
歌麿自身は文化3年(1806年)9月20日に世を去っているため、彼女が娘にせよ後妻にせよ、少なくともまったく孤独だった訳ではなかったようです(よかった……本当によかった)。
ちなみに彼女は歌麿の死後、歌麿の門弟であった二代目恋川春町(※劇中で自害した初代の門弟)こと小川市太郎(おがわ いちたろう。または北川・喜多川鉄五郎)を婿にとりました。
彼女が歌麿の後妻であれば再婚、歌麿の娘であった場合は初婚または再婚となります。
妻はもちろん、娘であれば結婚前は親と同居しているのが一般的。ですから仲の良し悪しはともかくとして、少なくとも独りではなかったでしょう。


