【べらぼう】史実では再婚する歌麿(染谷将太)。愛妻を喪い、蔦重を捨てた後、孤独ではなかった:2ページ目
二代目喜多川歌麿の評判は?
婿入りした市太郎は初代の画風(特に晩年のもの)をまね、二代目喜多川歌麿を襲名しました。
並みいる先輩たちを差し置いての襲名に疑問や不満の声もあったようですが、婿としての立場を利用したのでしょうか。
……馬喰町ニ住ス、二世戀川春町ト云人也、書ヲ能ス、故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也、錦繪アレドモ拙キ方、文化ヨリ天保ノ頃ノ人、俗稱北川鐵五郎……
※大田南畝『新増補浮世繪類考』より。
【意訳】(二代目喜多川歌麿は)馬喰町に住む二代目恋川春町という人である。能筆家で亡き歌麿の妻に婿入りした。錦絵の技量は(門弟や業界の中でも)拙い方である。文化(1804~1818年)から天保(1831~1845年)ごろに活動した。本名を北川鉄五郎という。
……この記述からすると、蓮室凉圓信女は歌麿の後妻で、市太郎と再婚したと考えるのが自然でしょう。
しかしこの二代目、あまり評判がよろしくありません。やはり血縁や姻戚関係よりも浮世絵師としての力量が重んじられたようです。
ただ初代歌麿の画風をまねるのは巧みだったのか、初代と二代目の両者を見分けるのは難しかったと言います。
確実に見分るポイントは「寅九」の検印。つまり寅年=文化3年(1806年)9月以前なら初代、それ以降であれば(初代は亡くなっているため)二代目と見分けられました。
かくして「人まね歌麿」の画風は次世代へと受け継がれ、文化13年(1816年)ごろまでは確実に続いたようです。
※ちなみに戯作者・二代目恋川春町としては天保2年(1831年)ごろまでその名で戯作を出版しています。そのため、もし同一人物であれば、この時期までは存命だったと言えるでしょう。
