【べらぼう】史実、その後の二人は?歌麿から見捨てられた蔦重が決定的に欠けていたもの:4ページ目
【ネタバレ?】蔦重と歌麿、それぞれの晩年
かくして蔦重の元を去った歌麿。実際のところはどうだったのかと言うと……。
蔦重との蜜月期を過ぎた歌麿はあちこちの板元から引っ張りだことなり、寛政7〜8年(1795〜1796年)ごろには最大で40以上の板元と契約していたと言います。
こうなるともう、一点一点を丁寧に描くなんてやっていられません。言葉は悪いですが粗製濫造が目立つようになりました。弟子にも手伝わせて量産体制を構築していたことでしょう。
それでも歌麿の人気は衰えることなく、浮世絵界の権威となっていきます。
そして最晩年に歌麿が身体を壊し、回復の見込みがないと知るや「描かせるなら今のうち」とばかりに注文が殺到しました。
本当に「絵師を何だと思っているんだ」と怒り出しそうですが、劇中ではこの鬼畜な板元たちを蔦重一人に集約したようです。
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いっぽう歌麿に去られた蔦重は、歌麿との関係修復を図りながらも新たな看板絵師を探します。
そして発掘したのが東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)こと斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろうべゑ)でした。
これまでにない新たな切り口で勝負を挑みましたが、歌川豊国(うたがわ とよくに。初代)の前に敗れ去ります。
リアリティ重視の写楽に対して、理想化重視の豊国。確かに写楽の画風は面白いものの、だからと言って「買う」までには至らないのが玉に瑕。いくらクオリティが高くても、買ってもらえなければ商売になりません。
かくして写楽は2年弱という短期間で、歴史の表舞台から姿を消したのでした。
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そして寛政9年(1797年)、蔦重は脚気のために48歳で世をさることになります。
終わりに
今回は歌麿に捨てられた蔦重に欠けていた資質や、二人のその後について考察してきました。
蔦重は写楽が去った後も歌麿との関係修復に努め、また二代目蔦屋重三郎も歌麿との関係修復を図っています。
よほど得難い存在であったにもかかわらず、去られてから初めて気づかされたのでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、今後二人の関係がどのようになっていくのか、心して見守りたいです。
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※参考文献:
- 浅野秀剛『別冊太陽 245 歌麿 決定版』平凡社、2016年12月
- 田辺昌子『もっと知りたい蔦屋重三郎 錦絵黄金期の立役者』東京美術、2024年12月
- 吉田暎二『吉田暎二著作集 浮世絵師と作品第1』緑園書房、1963年1月




