「鎮魂の地」という素顔——大阪有数の人気スポット、道頓堀・千日前の知られざる歴史[前編]
大阪を代表する繁華街といえば、「キタ」と「ミナミ」。梅田を中心とするキタに対し、ミナミは心斎橋を中心に広がり、その中核をなすのが道頓堀と千日前だ。
日本一古い歴史を持つとされる心斎橋筋商店街を南へ進むと、道頓堀川に架かる戎橋がある。そしてその向こう側には、おなじみの巨大な「道頓堀グリコサイン」が、訪れる人々を出迎えている。
コロナ禍が一段落した今、この界隈は再び国内外の観光客で昼夜問わず賑わいを取り戻している。いや、むしろコロナ前以上にインバウンド客でごった返していると言っていいだろう。
そんな華やかな道頓堀には、大阪松竹座が象徴する「芸能の街」としての顔がある一方で、かつて処刑場や火葬場、墓地があった「鎮魂の地」という、もう一つの素顔も秘めている。
今回は2回に分けて、賑わいの裏に潜む「道頓堀・千日前の知られざる歴史」を紐解いてみたい。[前編]では、道頓堀川とそこに架かる戎橋(えびすばし)についてお話ししよう。
桃山時代から江戸時代初期に開削された道頓堀
読者の皆さんは、大阪というとどんなイメージをお持ちだろうか?学校で習う大阪府とは、東京都・神奈川県に続いて3番目の人口を有し、国内2番目の経済規模を持つ近畿地方の中心地ということだろう。
しかし、ひと口に大阪といっても、その姿にはさまざまな側面がある。歴史的に見ても、古代は難波宮を中心とした副都の時代、中世は難波津を押さえた武士団・渡辺党の時代、そして近世は一向宗の石山本願寺から豊臣秀吉の大坂城へと移り変わる時代であった。さらに江戸時代に入ると、「天下の台所」と称された商都として繁栄を極めることとなる。
安土桃山時代から江戸時代にかけての大坂は、大坂城を中心とする城下町でありながら、同時に商人の街としての性格を強く持っていた。現在も大阪が「水都」、すなわち水の都と呼ばれるのは、物資の運搬のために複雑な運河網が築かれたことに由来する。
2025年のセントラルリーグは阪神タイガースが優勝し、その勢いのまま日本シリーズ進出も決めた。
タイガースが優勝すると、熱狂的なファンが飛び込むことで知られる道頓堀川だが、実は自然の「川」ではなく、もともとは人工の運河であった。
道頓堀川は安土桃山時代、自治都市・平野郷を支配した平野七家の出身である商人・成安(安井)道頓が、豊臣氏の許可を得て私財を投じ、開削工事を進めたことに始まる。
道頓は豊臣氏との縁もあり、大坂夏の陣に参戦し討ち死にするが、その後、従兄弟の安井道卜(どうぼく)らが遺志を継いで工事を完成させた。川の名前は道頓の功績を称え、「道頓堀」と名付けられたのである。

