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「鎮魂の地」という素顔——大阪有数の人気スポット、道頓堀・千日前の知られざる歴史[前編]

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戎橋(えびすばし)は千日前墓地の入り口だった

その道頓堀川に架かる戎橋は、繁華街の中心である心斎橋筋と戎橋筋を結ぶ位置にある。かつてこの橋は、大阪有数のナンパスポットとして知られ、地元では「ひっかけ橋」の愛称でも親しまれている。

戎橋の歴史は古く、1612年(慶長17年)に本格的に始まった道頓堀川の開削計画とともに構想され、1615年(元和元年)に木橋として架けられたとされる。

その1615年(元和元年)には、豊臣氏が徳川氏によって滅亡に追い込まれた大坂夏の陣が起きた。徳川家康は豊臣秀頼を滅ぼすと同時に、豊臣時代の大坂を徹底的に破壊したと伝えられている。秀吉が築いた大坂城は取り壊され、その上に土を盛って新たに徳川大阪城が築かれ、城下町も再整備された。

この年に戎橋が設けられたのには理由がある。それは、江戸時代におけるミナミの発展と深く関係していた。徳川氏によって新たな大阪の街が整備されると、道頓堀の北側に位置する島之内の六軒町や宗右衛門町は、船場の職人たちの遊興地として栄えた。

一方、道頓堀の南側は、役者たちの暮らしの場であり、芝居や興行の中心地として発展した。夜のネオンが輝く島之内や、松竹座の灯りに彩られる現在の情景は、すでに江戸時代初期にその原型が形成されていたといえる。

また、江戸時代には、繁華街や遊興地の近くに墓地が設けられることが多かった。そして、戎橋を渡るとその先には、西暦600年頃の創建と伝わる今宮戎神社が鎮座している。

今日、戎橋は多くの人々が集う賑やかな場所となっているが、もともとは千日前墓地を通って今宮戎神社へと至る表参道の橋であった。つまり戎橋は、鎮魂の地・千日前の入り口であり、商売繁盛の神へ詣でる参拝道としての役割を担っていたのである。

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怪談めいた都市伝説とは?大阪有数の人気スポット、道頓堀・千日前の知られざる歴史[後編]

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※参考文献:大阪歴史文化研究会著 『大阪古地図歩き』 メイツユニバーサルコンテンツ刊

 

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