【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ…:4ページ目
蔦重の死後
寛政9年(1797年)に蔦重が世を去っても、歌麿の勢いは衰えを知りませんでした。
しかし40を超える板元と契約していた歌麿は、次から次へと描かねばならなかったことから、粗製濫造で画風に衰えが見えてきます。
美人画は背が高く、下ぶくれの顔とパターン化されてきましたが、これは規制逃れの意味もあったとか。
しかし文化元年(1804年)、大判三枚続の「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことで、歌麿は手鎖50日の刑に処せられてしまいます。
実は戦国時代後期(天正年間。1573年〜)以降の人物を描くことが禁じられていたのでした(絵草紙取締令)。
歌麿が描いたのは、醍醐の花見。豊臣秀吉が自らの栄華を謳歌する場面です。
手鎖の刑は心身にこたえたらしく、これ以降歌麿は病気がちになってしまいました。
歌麿の病状は悪化の一途をたどり、もはや回復の見込みがないと分かるや、板元たちは今の内とばかり歌麿に浮世絵を依頼します。まったく彼らは鬼なんじゃないでしょうか。
そして文化3年(1806年)に世を去りました。
墓所は世田谷区の専光寺(当時は浅草新堀端菊屋西側)にあり、戒名を秋円了教信士(しゅうえんりょうきょうしんし)と言います。
歌麿の家族
ここまで歌麿の生涯を駆け足でたどってきましたが、あまり家族の姿は見えてきません。
歌麿には妻が複数いたことがわかっていますが、子供はいなかったようです。
歌麿の妻たち
- 理清信女(りせいしんにょ)
生年不詳〜寛政2年(1790年)8月26日没
俗名は不詳(きよ?)。出自や歌麿との出会いなど詳細は不明、専光寺に葬られる。
- もう一人の妻(実名不詳)
生没年不詳
出自や結婚時期などの詳細は不明。歌麿の死後、小川市太郎(北川鉄五郎)と再婚。市太郎は二代目歌麿を称した。
理清信女の死後も歌麿に妻がいたことがわかる。
- 喜多川千代女(ちよじょ)?
生没年不詳
歌麿の門人と言われるが、妻とも架空の存在(歌麿の変名)とも言われる。
終わりに
今回は蔦重の盟友として活躍した喜多川歌麿について、その生涯をたどってきました。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では蔦重への複雑な感情や、亡き愛妻おきよ(藤間爽子)をめぐって対立が続いています。
かつては「何があっても、俺だけは隣にいるから」と言っていたのに、残念でなりませんね。
果たして歌麿がどうなっていくのか、注目していきましょう!
【べらぼう】蔦重の母・つよに異変が…次回10月26日放送のあらすじ&場面写真、相関図が公開
※参考文献:
- 浅野秀剛『別冊太陽 245 歌麿 決定版』平凡社、2016年12月
- 田辺昌子『もっと知りたい蔦屋重三郎 錦絵黄金期の立役者』東京美術、2024年12月
- 吉田暎二『吉田暎二著作集 浮世絵師と作品第1』緑園書房、1963年1月



