【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ…:3ページ目
蔦重と疎遠に
そんな中、寛政3年(1791年)に蔦重と山東京伝(さんとう きょうでん。北尾政演)が筆禍事件に巻き込まれました。
※ご禁制の好色本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかい にしきのうら)』を教訓読本として出版した罪に問われています。なお作者の京伝は手鎖50日に。
身上半減(全財産の半分を没収)という大打撃を受けた蔦重は、黄表紙などを扱う地本問屋から、お堅い書物問屋として経営方針を変更していきます。
一方歌麿はなおも抵抗を続ける気だったのか、蔦重とは次第に疎遠となってしまいました。
ますます名声が高まる中で和泉屋・上村屋・近江屋など多くの版元から依頼が舞い込み、退廃的な官能美を追求していったのです。
ただ美しいだけでなく、あえて醜さや猥雑さを忍ばせることで、モデルの魅了をより引き出したのでした。
浮世絵の権威に
遊女や花魁、茶屋の娘など、歌麿のモデルとなった女性はたちまち人気が高まりったと言います。
そんな歌麿ブームに対して、当局は寛政5年(1793年)に「評判娘の名前を錦絵に記すべからず」と禁令を出しました。
すると歌麿は規制に対抗しようと、名前を判じ絵(絵解き)にした「高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)」をリリースします。
しかしそんな手がいつまでも通用するはずもなく、寛政8年(1796年)に削除を命じられてしまいました。
そんなことがあっても、歌麿は挫けることなくブランドを確立。
揃物の判じ絵「五人美人愛敬競(ごにんびじん あいきょうくらべ。寛政7〜8・1795〜1796年ごろ)」に「ひきうつしなし自力絵師(誰かの真似でなく、自らの画風を確立した本物の絵師)」と記します。
加えて「自成一家(自ら一家≒一流派を成す)」印を使用。また「正銘歌麿(本物の歌麿)」と落款しました。
また下描きにも偽造防止の「本家」印を捺すほど人気があり、まさに美人画の一時代を築き上げたと言えるでしょう。

