【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ…:2ページ目
蔦重との出会い
歌麿は鳥山石燕(せきえん)に絵を学び、浮世絵師としてのデビューは明和7年(1770年)。石要名義で絵入歳旦帳『ちよのはる』に茄子の絵を載せました。
天明3年(1783年)の「青楼仁和嘉女芸者部(せいろうにわか おんなげいしゃのぶ)」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続(〜かしまおどり ぞく)」では歌麿名義で描いています。
この頃は鳥居清長風のスマートな全身美人画をメインに描いており、構図の安定感と緻密なデザインと配色に定評がありました。
やがて蔦屋重三郎(蔦重)と組むようになり、天明狂歌に花鳥画を合わせた狂歌絵本を続々と出版します。
13冊出版した中でも『画本虫撰(えほんむしゑらみ。天明8・1788年ごろ)』『汐干のつと(しおひ〜。寛政元・1789年)』『百千鳥狂歌合(ももちどり きょうかあわせ。寛政2年・1790年ごろ)』は特に優れ、評判となりました。
当代一の浮世絵師へ
また蔦重と共に大首絵を出版。それまで全身画がメインであったのに対して、バストアップ&背景の省略(白雲母加工)によって人物の微妙な表情や仕草を巧みに描き出し、見る者の感情を呼び起こしたのです。
寛政2〜3年(1790〜1791年)の「婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)」「婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)」はじめ、生気あふれる官能美で人々を魅了しました。
歌麿の画風は筆致だけでなく無線摺(むせんずり。無線空摺)・朱線・ごま摺りなどの版画技法によっても引き立てられ、女性の肌理や衣服の質感などに個性を発揮しています。
例えば「娘日時計(むすめひどけい)」では、それまで常識だった太い輪郭線ではなく、背景の色によって柔らかな肌を表現する技法が使われました。
こうした技量と工夫により、歌麿は当代一の浮世絵師として地位を確立していったのです。

