「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】:3ページ目
激烈な政治闘争を骨太の精神で切り抜ける
762年(天平宝字6年)、家持は正五位上相当の中務大輔に任ぜられ、京官に復した。中務大輔は、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷の職務全般を担う重要な省の次官である。
当時の天皇は、孝謙天皇から譲位を受けた淳仁天皇であったが、その下では太師(太政大臣)・藤原仲麻呂が絶対的な権力を握っていた。家持の京官復帰は、仲麻呂の意向なしには叶わなかったと考えられるが、家持はこの場でも反骨精神を示した。
763年(天平宝字7年)、家持は仲麻呂に対して、式家の藤原宿奈麻呂(良継)、石上宅嗣、佐伯今毛人の三人と共に暗殺計画を立案した。しかし密告により計画は露見し、家持は首謀者の疑いをかけられ捕えられた。この事件は、宿奈麻呂が単独犯行を主張したため、家持は罪を問われなかったものの、再び薩摩守に左遷された。
翌年、仲麻呂が孝謙上皇と争った「藤原仲麻呂の乱」で敗死・失脚すると、家持は薩摩守から大宰少弐に転じた。
770年(神護景雲4年)9月、称徳天皇が崩御すると、家持は左中弁兼中務大輔として要職に就く。11月に光仁天皇が即位すると、式部大輔、左京大夫、衛門督など京官の要職や、上総・伊勢などの国守を歴任し、順調に出世を重ねた。
位階も順調に昇進し、771年(宝亀2年)に従四位下、777年(宝亀8年)に従四位上、翌年には正四位下となる。780年(宝亀11年)には参議に任ぜられて公卿に列し、翌年には従三位に叙せられた。
桓武朝に入ると、氷上川継の乱への関与を疑われて解官されたが、すぐに赦免され参議に復し、その後中納言に昇進した。
こうして激烈な政治闘争を骨太の精神で切り抜けた家持は、785年(延暦4年)まで生き抜き、中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍として赴任先の陸奥国で没した。
しかし、没後まもなく長岡京で発生した「藤原種継暗殺事件」において、家持の名が黒幕として挙がり、追罰として埋葬を許されず、官籍からも除名されてしまう。なお、806年(延暦25年)の恩赦により、あらためて従三位に復したのである。
さて[前編]はここまで。[後編]では、大伴家持が『万葉集』に呼んだ和歌からその心情を考察していこう。
【後編】の記事はこちら↓
滅びゆく名門の誇り…反骨の貴族・大伴家持が『万葉集』に託した最後の歌【後編】
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※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』 三笠書房刊




