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「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】

「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】:2ページ目

藤原仲麻呂に危険視され地方へ追われる

大伴家持の朝廷における歩みを見てみよう。殿上人に列したのは、745年(天平17年)、27歳の時に従五位下に叙せられたのが始まりである。その後、宮内少輔や越中守に任ぜられて地方官へと転じ、従五位上に昇進している。

この間、少納言に任官し、帰京後の754年(天平勝宝6年)には兵部少輔、757年(天平勝宝9年)には兵部大輔に任じられ、孝謙天皇のもとで武門の貴族・大伴氏にふさわしく兵部省の次官を務めた。

しかし、ここで家持は大規模な政争に巻き込まれる。それが757年(天平勝宝9年)に起きた「橘奈良麻呂の乱」である。

この乱は、光明皇后の後ろ盾を得て独裁色を強める藤原仲麻呂を追い落とそうとした橘奈良麻呂が、橘氏・大伴氏・佐伯氏らの諸族とともに企てたものだった。だが政争に敗れ、橘氏・大伴氏・佐伯氏をはじめ、反仲麻呂派と見なされた皇族・藤原南家・多治比氏ら多くが死刑や流刑などの処罰を受けた。

家持自身は直接に加担していなかったにもかかわらず、因幡守に左遷され、都を追われることになった。なお、759年(天平宝字3年)正月、赴任先の因幡国国府において『万葉集』の最後の和歌を詠んでいる。以後、家持は行政官・武官としての道をひたすら歩んでいくこととなる。

3ページ目 激烈な政治闘争を骨太の精神で切り抜ける

 

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