【べらぼう】寛政の改革で時代が彼に追いついた…『即席耳学問』の作者・市場通笑とは?:3ページ目
寛政の改革で、時代が彼に追いついた?
市場通笑の作風は『教訓蚊之呪』『忠孝遊仕事』などのタイトルから判る通り、教訓ものが多く、当時の黄表紙界では「教訓の通笑」と呼ばれる異色の存在でした。
通笑本人も堅物だったようで、生涯独身を貫き、また妹夫婦と同居していたと言います。
それでも恬淡と暮らしていたことから、江戸市中の人々は通笑を「市中の仙(意:街中に住む仙人)」と呼びました。
著名な弟子はいないようですが、愛情をもって指導したことから、弟子たちからも尊敬を集めていたようです。
安永・天明期こそ滑稽扱いされていた通笑。しかし山東京伝『心学早染草』がヒットしたように、真面目が推奨された寛政期では通笑に時代が追いついたのかも知れませんね。
終わりに
江戸の黄表紙界に大きな影響を与えた市場通笑は文化9年(1812年)8月27日に76歳で世を去りました。
墓所は台東区松が谷の祝言寺にあり、今も人々を見守っています。
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」には登場しなさそうですが、当時は他にも多くの戯作者たちが活躍していたのでした。
また他の戯作者についても、紹介したいと思います。
※参考文献:

