【べらぼう】寛政の改革で時代が彼に追いついた…『即席耳学問』の作者・市場通笑とは?:2ページ目
市場通笑の主な作品
- 『嘘言彌二郎傾城誠(うそつきやじろう けいせいのまこと)』安永8年(1779年)
- 『飲中八人前(いんちゅう はちにんまえ)』安永9年(1780年)
- 『思事夢濃枕(おもうこと ゆめのまくら)』天明元年(1781年)
- 『教訓蚊之呪(きょうくん かのまじない)』天明2年(1782年)
- 『能息子内栄(よいむすこ うちがさかえる)』天明3年(1783年)
- 『もふもふ古和以噺(~こわいはなし)』天明4年(1784年)
- 『魚と水 通和者交(うおとみず つわものまじわり)』天明5年(1785年)
- 『高砂屋尾上金(たかさごや おのえのかね)』天明6年(1786年)
- 『二昔以前の洒落(ふたむかし いぜんのしゃれ)』天明8年(1788年)
- 『即席耳学問』寛政2年(1790年)
- 『忠孝遊仕事(ちゅうこう あそびしごと)』寛政2年(1790年)
- 『幼馴染花咲祖父(おさななじみ はなさかじじい)』寛政6年(1794年)
- 『和睦香之物(わぼく こうのもの)』享和2年(1802年)
……等々。劇中では寛政元〜2年(1789〜1790年)時点で、蔦重から
「今ごろ通笑先生に頼む人がいるとはねぇ」
「大事ねぇのか?あの人もう随分(黄表紙を)書いてねぇだろ」
など、何だか過去の人みたいに言われていました。
しかしこう見ると、結構マメに新作を出していたようです。
※概ね1〜2年に1作ペースがマメかはともかく。現代に喩えるなら、コミケに新刊を出すような感覚でしょうか。
