奈良・明日香村「菖蒲池古墳」の謎──被葬者は、蘇我蝦夷・入鹿か、それとも石川麻呂か?
日本古代史上の大事件として知られる「大化の改新」。その発端となった645年の乙巳の変では、古代豪族・蘇我氏の本宗家が滅亡した。中大兄皇子と中臣鎌足らの手によって討たれたのは、蘇我蝦夷・入鹿父子である。
彼らの墳墓については古来さまざまな説が唱えられてきたが、近年注目されているのが、奈良県明日香村にある「菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)」だ。
今回は、この菖蒲池古墳をめぐる謎について紹介していこう。
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終末期の古墳上、極めて精巧に造られた2基の家形石棺
菖蒲池古墳は、蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったとされる甘樫丘のほぼ南端、橿原市南東部の明日香村境界付近に位置している。
墳丘の形状は長らく不明とされていたが、2010年(平成22年)の発掘調査によって、一辺約30メートルの二段築成の方墳であることが判明した。
菖蒲池古墳は、墳丘の形状以上に、古くから非常に精巧に造られた2基の家形石棺が存在することで知られていた。
2基の家形石棺を安置する石室は、羨道部および玄室南端部を失っているものの、花崗岩の巨石を用いて南向きに構築された横穴式石室である。玄室は両側壁が二段積みで、計八個の石材が整然と積み上げられている。奥壁は粗加工の石材を二段に積み、下段はほぼ垂直、上段はやや内傾させて構築されており、石材の間隙や側壁の凹部には広範囲に漆喰が塗布されている。
石室は両袖式であるが、羨道の大半が土に埋没しているため、全長などの詳細は不明である。現存する玄室の内法は長さ7.3メートル、幅2.6メートル、高さ約2.6メートルであり、近鉄飛鳥駅近くに所在する岩屋山古墳に類似していることが指摘されてきた。
玄室に据えられた2基の家形石棺は、ほぼ同一の軸線上に配置されている。石棺の材質はいずれも竜山石の凝灰岩をくり抜いたものである。
うち、入り口寄りの石棺は、身の四隅および長辺中央に柱を刻み、上端に梁と桁、下端に土居桁を浮彫で表現する。さらに、梁には二個、桁には四個、土居桁の長辺には四個・短辺には二個の、短冊形の浅い彫り込みが施されている。加えて、蓋の頂部平坦面には縦長の浅い溝状の彫り込みが設けられている。
一方、玄室奥の石棺もほぼ同様の形態を示すが、蓋上部の彫り込みや長方形の装飾は見られない。ただし、両石棺とも内面全体に黒漆と朱が施されている。いずれにせよ、菖蒲池古墳の2基の家形石棺は、終末期古墳の中でも極めて精巧な造作を備える点で注目される。



