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『べらぼう』大河史に残る、春町”泣き笑いの死”。史実をもとに実際の生涯や「辞世の句」を解説

『べらぼう』大河史に残る、春町”泣き笑いの死”。史実をもとに実際の生涯や「辞世の句」を解説:3ページ目

朋誠堂喜三ニの生涯

【大河べらぼう】蔦重とのコラボにネット歓喜!朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのり)とは何者なのか?

(12)俄(にわか)なる『明月余情』初回放送日:2025年3月23日俄祭りの企画を巡り、大文字屋(伊藤淳史)と若木屋(本宮泰風)が争う。蔦重(横浜流星)は、祭りを描く本の執筆を平賀源内(安田顕…

こじらせ陰キャな春町のよき理解者として筆を振るってきたものの、今回の一件で江戸から国許へ戻されてしまう朋誠堂喜三ニ。送別会のエピソードは創作ですが、みんなから愛されていたのがよく分かります。

彼の本名は平沢常富(ひらさわ つねまさ/つねとみ)、享保20年(1735年)閏3月21日に江戸で誕生しました。

佐竹藩の江戸家老として藩邸を切り盛りする一方、若いころから吉原通いが大好き。自称「宝暦の色男」として浮名を流します。

天明の狂歌ブームでは手柄岡持(てがらの おかもち)、劇中では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)の筆名から「まあさん」と呼ばれていました。ほか金錦佐恵流(きんきん さえる)なんてのも……。

例の『文武二道万石通』は一度見逃されているものの、春町先生の『鸚鵡返文武二道』が定信の逆鱗に触れた巻き添えで絶版処分に。藩主・佐竹義和(よしまさ。二宮慶多)から叱責され、黄表紙からは引退してしまいます。

「まぁ、遊びってのは、誰かを泣かせてまでやるこっちゃないしなぁ……」

その後はもっぱら狂歌を詠むにとどめ、文化10年(1813年)5月20日に79歳で世を去ったのでした。

法名は法性院月成日明居士。一条院(東京都江東区)に墓所があります。

唐来参和『天下一面鏡梅鉢』とは

【べらぼう】寛政の改革で絶版処分に!唐来参和(山口森広)作『天下一面鏡梅鉢』とはどんな作品だった?

田沼政権と入れ替わりに始まった「ふんどし野郎」こと松平定信(井上祐貴)の政治改革。後に「寛政の改革」と呼ばれ、徳川幕府を半世紀ばかり延命したとも言われています。その一方で、厳しい思想統…

今回はほとんど言及されていませんでしたが、唐来参和(山口森広)の手がけた『天下一面鏡梅鉢』とはどんな作品だったのでしょうか。

もちろん絶版処分を受けるくらいですから、松平定信の御政道を皮肉る内容であることは言うまでもありません。

すごくざっくり言えば「世の中何もかもが思い通りに上手く行って、あまりのめでたさに麒麟も鳳凰もやって来たよ」という、実にシュールと言うか皮肉なストーリーです。

主人公は菅原道真。古代の聖帝と謳われた醍醐天皇を補佐して、理想的な政治を実現して天神様と祀られたのでした。

道真の家紋は、定信と同じ梅鉢(うめばち)の紋。要は「いよっ、さすが定信天神様!」とでも言ったところでしょうか。ここまで露骨にヨイショされると、いくら野暮な定信だって風刺だと気づいたことでしょう。

タイトルの『天下一面鏡梅鉢』とは「天下が一面鏡のように反対映しだ≒現実は何もかも上手くいっていないぜ」という御政道批判になります。

ちなみに唐来参和は喜三ニや春町と異なり、2年後に戯作者として復活。しぶとく創作を続けるのでした。

戯れせんとや、生まれけん(戯れるためにこそ、生まれてきたのだ!)……今後も活躍して欲しいですね。

4ページ目 春町の辞世を、唐来参和が勝手にアレンジ

 

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