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平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【後編】

平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【後編】

「荘園」とは、田んぼや山林を貴族や寺社が所有し、そこで働く人々から年貢を受け取る仕組みです。

土地が増えれば増えるほど、収入や政治的な影響力も大きくなります。今でいえば、不動産をたくさん持つ大地主が、社会のルールや流れにまで力を及ぼしていたようなものです。

そんな「荘園王国」を築き、平安末期から鎌倉初期にかけて特別な存在感を放った女性がいます。それが八条院(はちじょういん)です。

【前編】では、八条院(暲子内親王)が父・鳥羽上皇と母・美福門院から受け継いだ荘園によって、膨大な「八条院領」を築いたことをお話ししました。

平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【前編】

読者の皆さんは、日本史の授業で「荘園」という言葉を習ったことがあると思います。荘園は、田んぼや山林を貴族や寺社が所有し、そこで働く人々から年貢を受け取る仕組みです。土地が増えれば増えるほど、収入や…

では、その後の彼女はどのように生き、またその遺産はどこへ行ったのでしょうか。

平家との緊張、血縁を守る決断

1180(治承4)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が「平氏を討て」と呼びかけて挙兵しました。これに怒った平家は、以仁王の子女を捕えるため、八条院の邸宅を包囲します。もし庇えば自らの立場を危うくする、それでも八条院は血のつながる子どもたちを守ろうとしました。

この場面から、彼女が単なる“富める女性”ではなく、強い信念を持った人物だったことが伝わってきます。

また、後鳥羽天皇(1180〈治承4〉~1239〈延応元〉)の外祖父である九条兼実(くじょうかねざね)にも近づき、院政期の複雑な政治の中で重要な役割を果たしました。

八条院の背後に広がる荘園の力が、彼女をただの傍観者ではなく、政局に影響を与える「女院」へと押し上げていたのです。

2ページ目 八条院の最期と八条院領のゆくえ

 

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