平安時代に“不動産王国”を築いたお姫さま「八条院」晩年の悲運と莫大な荘園のゆくえ【前編】
読者の皆さんは、日本史の授業で「荘園」という言葉を習ったことがあると思います。荘園は、田んぼや山林を貴族や寺社が所有し、そこで働く人々から年貢を受け取る仕組みです。
土地が増えれば増えるほど、収入や政治的な影響力も大きくなります。今でいえば、不動産をたくさん持つ大地主が、社会のルールや流れにまで力を及ぼしていたようなものです。
そんな「荘園王国」を築き、平安末期から鎌倉初期にかけて特別な存在感を放った女性がいます。それが八条院(はちじょういん)です。
本名を暲子内親王(しょうし/たかこ)といい、1137(保延3)年に生まれました。父は鳥羽天皇、母は藤原得子(美福門院)。当時の朝廷でもっとも力を持った女性のひとりを母に持ち、まさに華やかな環境で育った人物でした。
幼いころからその寵愛を受け、1138(保延4)年には内親王に、さらに1146年(久安2年)には「准三宮(じゅんさんぐう)」に叙されます。わずか10歳ほどの少女に与えられた地位としては破格といえるでしょう。
1155(久寿2)年、兄の近衛天皇が若くして崩御すると、鳥羽法皇は「暲子を女帝に」と考えたとも伝えられます(『今鏡』)。もしこの望みが叶っていたなら、彼女は歴史に名を刻む初の「女帝」となっていたかもしれません。
しかし、彼女は別の道を選びました。1157(保元2)年、暲子は出家し「金剛観(こんごうかん)」と号します。その後、1161(応保1)年、二条天皇の「准母(じゅんぼ)」となり、院号宣下を受けて「八条院」と称しました。
后位を経ずに女院号を授けられるのは、これが初めての例であり、彼女の特別な地位がうかがえます。
ここから八条院は、単なる「皇女」ではなく、「女院」としての力を背景に活躍していくことになります。その原動力となったのが「八条院領」でした。
2ページ目 八条院領のはじまり
