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国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】

国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】:2ページ目

若き外交官として

明治元年(1868年)に帰国した森は、わずか22歳で外国官権判事に任じられます。当時としては破格の月俸200円が与えられましたが、「30円で十分」と減俸を願い出たという逸話も残っています。合理主義的で実直な性格がうかがえますね。

その後、少弁務使としてアメリカに赴任し、日本とアメリカの外交事務や留学生の監督にあたりました。1872年には『Education in Japan』を刊行し、日本の教育の現状を世界に紹介します。

同年、ワシントンで「日本における宗教の自由」を発表し、信教の自由を訴えました。これは明治初期の日本としては非常に先進的な主張でした。

明六社の設立

1873年に帰国すると、森は福澤諭吉や西周、西村茂樹、中村正直らとともに「明六社」を設立します。日本初の近代的学術団体とされるこの社で、森は「妻妾論」を発表し、一夫一婦制を強く主張しました。

当時は一夫多妻が容認されていた時代であり、大きな議論を呼びました。彼の考えはしばしば「急進的すぎる」と批判され、「明六の幽霊」と皮肉られることもありました。時代が追いついてなかったんでしょうかね。

また、森は1875年に、東京・銀座に私塾「商法講習所」を開きます。これがのちの一橋大学の前身となり、日本の実学教育を支える場となりました。

【後編】の記事はこちら↓

暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】

前回の記事では、森有礼が薩摩藩から渡欧・渡米し、日本初の駐米公使や思想家として頭角を現した姿を見てきました。[insert_post id=256503]今回は、彼が教育制度を築き上げ、政治家…

参考文献

  • 大久保利謙 編『森有禮全集』(1972 宣文堂書店 )
  • 木村力雄『異文化遍歴者森有礼』(1986 福村出版)
  • 木村匡『〈伝記叢書〉森先生伝:伝記・森有礼』(1987 大空社 )
  • 上沼八郎・犬塚孝明 共編『新修 森有禮全集』(1999 文泉堂書店 )
  • 犬塚孝明『〈人物叢書〉森有礼』(2003 吉川弘文館 )
  • 国吉栄『森有礼が切り拓いた日米外交:初代駐米外交官の挑戦』(2018 勉誠出版 )
 

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