『べらぼう』ふく・とよ坊の救いなき最期、家治は毒を盛られ力尽き…無情すぎる絶望回に反響:2ページ目
『徳川実紀』に見る天明の洪水
利根川の堤防を決壊させた大水が江戸市中へ流れ込み、人々の暮らしを壊滅状態に追い込んだ天明の大洪水。その様子が江戸幕府の公式記録『徳川実紀』に残されていました。
少し長いですが、被害の凄まじさを実感できるかと思います。
……この月十二日よりわけて雨風はげしく。昨日の夕よりにはか(俄か)に川々の水みなぎり来りて。両国。永代をはじめ橋梁ををしながし(押し流し)。青山。牛込などいへる高燥の地さへも山水出で。屋舎をやぶるに至りければ。わけて本所。下谷。関口。小日向など卑湿の地。大厦(たいか。大家)は軒をひたし。矮舎(わいしゃ。小家)は屋背にもこへ。日数へて水たゝへ。平地は一丈(約3m)にもこえしかば。農商はさらなり。朝参の輩も水にさゝへられ往来もたゆるほどなり。
むかしより府内にかかる水患いまだ聞もおよばぬこととて。人々うれひなげきけり。まして郊墹の外は堤上も七八尺(約2.1~2.4m)。田圃は一丈四五尺(約4.2~4.5m)ばかりも水みち。竪川。逆井。葛西。松戸。利根川のあたり。草加。越谷。粕壁。栗橋の宿駅までも、たゞ海のごとく。淼々(びょうびょう)としてわかず(分かず)。
岡は没して洲となり。瀬は変じて淵となりぬ。この災にかゝりて屋舎。衣食。財用をうしなひ。親子兄弟ひきわかれて。たゞ神社仏宇などの少しもたかき所をもとめからき命をたすかり。中には溺れ死せしも数志れずと聞えければ。ふかくうれひさせ給ひ。
それゞゝの奉行。代官に命ぜられ。官船を出してすくはせられ。両国橋。馬喰町には数椽(すうてん。数軒)の舎をつくり飢民をやどし食をたまはる。
すべて慶長のむかし府を開かれしより後。関東の国々水害かうぶることありし中にも。これまでは寛保二年(1742年)をもて大水と称せしが。こたびはなほそれにも十倍せりといへり。
ことし春のほどより空中にあやしき物音することありしかば。天にて楽を奏すなりと人々いひあへり。また古にいはゆる鼓妖といふものなるべしとて。をそれしものもありけるが。かゝる希有の災害ある先徴にやありけんと申しける。
※『浚明院殿御実紀』巻五十五・天明六年七月「府内水患」天明6年(1786年)7月16日条
あちこちで水深2~4mを超える浸水被害をもたらした水害の一因として、3年前の天明大噴火がありました。火砕流や土砂が利根川の底にたまって水量を押し上げ、それが大水害をもたらしたのです。
またこの年の春ごろから怪異現象があり、空からあやしい物音がしたとか。これを古くから鼓妖(こよう)と呼び、天が世を戒めるために響かせたと言います。
これは田沼政権に対する怒りなのか、それとも……。
中止された貸金会所令と印旛沼の干拓
……さきに命ぜられし寺社農商より金銀を官に収めしめ。諸家にかし給ふべしといへる令を停廃せらる。これこたびの水害により農商等がうれひ申すによれり。……(中略)……下総国印旛。手賀開墾のこともみなとゞめられたりといふ。
※『浚明院殿御実紀』巻五十五・天明六年八月-同九月「依水害停農商上納金并印旛沼手賀開墾」天明6年(1786年)8月24日条
劇中でも触れられたとおり、以前に発案された貸金会所令や印旛沼の干拓事業は、水害の影響を考慮して取りやめとなってしまいました。
人々の苦しみを思えば無理もないですが、中長期的な資金・食糧調達政策を中断せざるを得なかった意次は、断腸の思いだったことでしょう。
現時点では蝦夷地についての中止は決定されていないものの、あまり見通しは明るくなさそうですね。
今回は松平定信(井上祐貴)の攻勢に押され気味の意次。盟友たちにも見放され、もはやこれまでと老中の辞意を表するに至りました。

