大河『べらぼう』過去回シーンが伏線に…凄惨な過去の亡霊に苦しむ歌麿、救えぬ蔦重【前編】:4ページ目
自分らしい絵を描くということは自分に向き合うこと
模写をしている間は、心をからっぽにして一心不乱に描いていればよかった歌麿。
けれども「自由に自分の絵を描いてみろ」と言われると、「己が描きたいものはなんだろう」と、改めて自分自身と対峙してなければなりません。
けれども、脳裏に浮かぶのは凄惨な過去。その過去の幻覚に追い詰められてしまいます。下絵を描いても描いても、黒墨で塗りつぶして没にしてしまう歌麿。
歌麿にとってはあまりにも酷な「生みの苦しみ」です。その苦しみが分かるだけに蔦重自身も悩みます。そんな蔦重にてい(橋本愛)は、「『これを知るものはこれをのこむ者にしかず』と申します」と声をかけます。論語を引用してくるあたりが、ていらしい。
『知之者不如好之者、好之者不如楽之者』
「あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人には及ばない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばない。」そんな意味合いです。
蔦重は、思わずカッとして「創作するときは生みの苦しみがあるんだ!」と、声を荒げてしまいます。自分自身の不甲斐なさに苦しんでいることが伝わるシーンでした。
歌麿は溜まった塗りつぶしの下絵を持ち、廃寺の中に隠そうとして外出します。そして、たまたま出会った女性の姿に母親を重ね、そばにいた浪人を自分が殺した浪人だと思い込んで、殴り殺すところでした。
後をつけてきた蔦重に止められ「描けない…こんな人殺しが描いた絵なんか見たいんだろうか」と涙をこぼします。
そんな歌麿を抱きしめながら「俺は見てえけどな」という蔦重ですが、いつものあの人ったらしプロデューサーらしい「俺!その本見てえ!」とクリエーターをやる気にさせる“キラキラ感”がまったくありませんでした。
本人も「こんな、言葉じゃあ伝わらねえな」と思っていたことでしょう。
歌麿のことは、人として2回助けることができました。けれども、自分の力では「絵師として花を咲かせられない」ということに気が付いてしまうのは、本当に辛いものでしょう。ずっと抱いていた“夢”なのですから。
蔦重は、ビジネスを成長させる“夢”は叶えていますが、愛する瀬川(小柴風香)を幸せにできなかった、尊敬する源内を助けられなかった、弟として可愛がっている歌麿を救うこともできない……失った“夢”も背負っています。
そんな、歌麿と蔦重を助けたのが、耕書堂を訪れた鳥山石燕でした。
石燕が、歌麿を過去の亡霊から解き放ってくれたのでした。【後編】に続きます。
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