「征夷大将軍」って結局なに?源頼朝や徳川家康で有名な肩書きの意味と歴史を解説
「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という言葉を聞いて、源頼朝や徳川家康を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。歴史の教科書にも登場する有名な肩書きですが、そもそもこの役職はどのように始まり、どんな役割を果たしてきたのでしょうか。
今回は、征夷大将軍がどのような目的で生まれ、武士の時代にどんな意味を持っていたのかを、時代の流れにそってやさしく解説していきます。
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征夷大将軍のはじまり
征夷大将軍は、もともと奈良時代の終わりごろに登場した役職です。当時、朝廷は東北地方に住んでいた「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々を支配しようとしており、そのための軍を率いる大将が必要とされました。そこで、天皇の命令を受けて派遣されたのが「征夷大将軍」です。
このころの征夷大将軍は、あくまで戦のための臨時の役職で、政治の実権を持つような立場ではありませんでした。戦いが終われば、その任務も終わります。
武士の時代と再登場
時代が下り、平安時代の終わりには武士の力が強まっていきます。そうした中、源頼朝が平氏を倒し、東国に独自の政権を築きました。そして朝廷は、頼朝に「征夷大将軍」の位を与えました。
この時点では、もはや東北の蝦夷を征伐する必要はありませんでした。それでもこの肩書きが選ばれたのは、古くからの格式と正統性があったからです。「大将軍」という名には、武士たちをまとめる力と、朝廷に認められた権威の両方がこめられていたのです。
この出来事をきっかけに、征夷大将軍という言葉は「武士の棟梁」「政権のトップ」という意味で使われるようになりました。
2ページ目 鎌倉・室町・江戸、三幕府での将軍職の実際
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