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「千々石ミゲル」は本当に”背教者”だったのか?墓の発掘調査で明らかになったキリシタン信仰の実態!

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発掘調査で分かったこと

千々石ミゲルは日本初のキリシタン大名である大村純忠の甥にあたり、1580年代に伊東マンショらとヨーロッパに渡り、ローマ教皇に謁見しました。

彼は日本の存在を西洋に知らしめた功労者ですが、1601~1603年頃、なぜかイエズス会を脱会し、清左衛門と改名して大村家に仕えています。

ほかの使節3人は生涯信仰を守ったのに対し、ミゲルは「背教者」として歴史に名を残すことになりました。

晩年の消息は不明でしたが、ミゲルの四男・玄蕃の墓と伝わる長崎県諫早市伊木力地区の墓石を調べたところ、玄蕃は建立者で、男女の戒名と寛永9年12月12日と同14日(1633年1月21日、2日)の没年月日が刻まれていたことが確認されました。

その後、ミゲルの子孫からなる民間チームが周辺の発掘調査を行っています。

その結果、膝を曲げて横たわる成人男女各1体の遺骨が見つかったほか、女性の墓穴でガラス玉58点、板ガラス1点などキリスト教の信仰具の一部が出土しました。

また男性の墓穴では、棺などに打ったとみられる約100本のくぎを確認。墓石に書かれた文字と発掘調査の状況に食い違いはなく、被葬者は玄蕃の両親であるミゲル夫妻だと結論づけられたのです

3ページ目 脱会後も信仰し続けていた

 

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