
「空海はまだ生きている」全方位で才能爆発!日本で最もぶっ飛んだ僧侶――弘法大師・空海の伝説の数々
弘法大師の名で広く知られる空海(くうかい)。
高野山、京都・東寺、そして四国八十八か所――日本各地にその名は刻まれ、今も信仰を集めています。けれどもその実像を詳しく知っている人は、案外少ないのではないでしょうか。
実はこの空海、宗教者としての側面を超えて、あらゆる分野で才能を発揮した、まさに“ぶっ飛んだ”人物でした。
そのいくつかのエピソードについては、既にJapaaanでもいくつか取り上げてきました。
弘法大師は何を書き間違えたのか?有名な格言「弘法も筆の誤り」の由来
弘法大師(空海)といえば、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称であり、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢のことを指す「三筆」の一人です。[caption id="attachme…
男色の開祖?女犯を禁じる仏教だけど男はOK、空海は日本の仏教界に男色ブームをもたらした
日本仏教における男色文化日本の仏教では、古くから女犯(にょぼん:女人との性交渉を絶たねばならない僧がそれを犯して性交渉を持つこと)は罪とされていました。仏門に入れば女人との交わりを絶って修行をする…
今回は今までのエピソードなども踏まえ、改めて空海という人物についての生涯とそのエピソードを、ご紹介してみたいと思います。
神童から仏道へ――空海の原点
空海は774年、現在の香川県善通寺市にあたる讃岐国に生まれました。幼名は佐伯真魚(まお)。幼いころから「神童」と呼ばれるほど賢く、15歳で国の最高学府である大学寮に入ります。
しかし、官僚としての道を歩む中で「人はなぜ生きるのか」「真実とは何か」という問いに向き合い、ついには大学を中退して出家。山林で修行に入り、仏教の道を志すようになります。
密教との出会い、そして唐への旅立ち
奈良で仏教の教えを深めていく中で、空海は「密教」という神秘的な教義に出会います。けれども、その奥義を伝えられる師は日本にはいませんでした。
そこで空海は、自ら遣唐使船への乗船を願い出て、唐(現在の中国)への渡航を決意します。航海は命がけでしたが、長安に無事たどり着いた空海は、青龍寺の恵果(けいか)という高僧と出会います。
恵果は、空海の資質と志をすぐに見抜き、全ての密教の教えと道具を託します。空海は、20年滞在が通例とされる留学を、わずか2年で切り上げて帰国することになりました。