
悲劇の指揮官…中国友好を望むもA級戦犯として処刑された日本陸軍・土肥原賢二がたどった運命
土肥原賢二という人物
最近は、終戦後のいわゆる東京裁判の正当性について議論されることが多いですが、裁判の結果A級戦犯として処刑された軍人たちの中には、悲劇的な末路としか言いようのない人もいました。
今回は、その中でも土肥原賢二という人物についてご紹介しましょう。
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土肥原は、戦時中に中国で数々の工作活動を主導した人物です。
彼と中国との関わりが始まったのは、陸軍大学校卒業後に参謀本部付で北京に駐在したことでした。
その後、土肥原は天津特務機関長を務めるなど、諜報のスペシャリストとしての道を歩んでいきます。
そして1931年3月には再び中国出張を命じられ、夏には関東軍司令部付で奉天特務機関長となりました。
こんな経歴もあってか土肥原は中国語に堪能で、現地の中国人の知り合いも多く、性格は温厚だったといわれています。そのため、中国人からの情報が自然と土肥原に集まるようになりました。
もともと彼は人格を重んじる性格で、特に教育方面に高い関心を持っていた人物だったといわれています。
当時の陸軍組織の中では知識偏重のエリート主義意識が強い軍人が多かったのですが、そんな中でも珍しく、玉川学園の小原國芳の唱える新教育の理解者であり、支援者でもありました。
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