無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相:2ページ目
このどちらかを携えて、福原長堯らの使者が伏見から高野山へ向かい、彼らの到着を受けて秀次は切腹したことになります。
伏見から高野山までの距離を考えると、わずか1日の差でも、三成らの連署状が作成されるのを待っていたら秀次の切腹に間に合いません。
従って、使者らが携えたのは軟禁命令の朱印状の方だったと考えられます。切腹命令の連署状は『甫庵太閤記』にだけ出てくる史料であり、フィクションの可能性もあります。
切腹の理由
では、なぜ秀次は切腹したのでしょうか?
実は、手掛かりがあります。京都御所の湯殿で天皇に近侍する女官が交代で記した『御湯殿上日記』によると、「無実だからこのようになった」という情報が朝廷に届いていたというのです。
無実だから切腹する、というのは奇妙に感じられるかも知れません。
しかし中世には、死罪としての切腹以外に、自らの潔白を主張する究極の訴願としての切腹もありました。秀次は命をもって潔白を訴えたと考えられるのです。
秀次と秀吉の間に亀裂が入っていたのは確かで、この一連の出来事の前に石田三成らは秀次を謀反の疑いで詰問しています。
釈明のために伏見城に赴いた秀次ですが、秀吉の不機嫌な姿に接し、謝罪の意を示して自らの意志で高野山に入ったのではないかと推測する研究者もいます。
そして秀次の行動を受けて、軟禁を命ずる朱印状が追って発給された可能性があるのです。
切腹した秀次が無実だったとなると、政権の動揺は避けられません。そこで秀吉らは秀次に罪ありと宣伝して、妻子ら30人余りを公開処刑したのです。
さらに聚楽第も破却することで事件に決着をつけた、と考えられます。
この新説は2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』でも採用され、広く知られることとなりました。これに対する反論もありましたが、さらなる反批判により、この新説の有効性はほぼ確定したと言ってもいいでしょう。
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参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

