
実は戦国初の天下人は信長ではない!京都を制した真の革命児・三好長慶の知られざる功績の数々
知られざる「天下人」
戦国期における「天下人」という場合、一般には織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑を指します。しかし近年、信長以前に「天下」を制した戦国武将として三好長慶(みよしながよし)[1522~60年]が注目されています。
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当時のキリスト教宣教師の文献にも「天下の支配者」などとして紹介されており、その知名度は海外にも広がっていたことが伺えます。
「天下」とは日本全国を意味すると捉えがちですが、戦国期は山城・大和・摂津・河内・和泉の京都周辺の畿内5か国を指すのが普通でした。政治の中心だった京都と、経済の中心だった堺が含まれる、いわば現代の首都圏にあたるエリアです。
三好長慶は、自らの力で京都を軍事的に支配し、将軍家の権威によらない形で中央政権を樹立した最初の戦国武将でした。そんな点が、彼の「天下人」と呼ばれるゆえんだったと言えます。
下剋上と将軍追放
もともと三好氏は阿波(徳島県)の守護・細川氏に仕える有力武士でした。しかし長慶の父・元長は、主君の細川晴元と対立し、自害を余儀なくされています。
そして数え11歳で家督を継いだ長慶は当初、父の仇である晴元に服属して、摂津を拠点に勢力を広げました。
父の代の阿波の有力家臣が途絶える中、家柄にとらわれず、能力重視で家臣を抜てきするなど、柔軟性のある政治力が躍進の背景にあったようです。
その後、晴元に反旗を翻す中、長慶の台頭を警戒する室町幕府との対立も深まり、1553年には13代将軍・足利義輝を京都から追放します。
さらに弘治から永禄への改元(1558年)の補佐など、将軍が担う任務を朝廷から任され、領内の用水の権利を巡る村同士の争いを自ら調停するなどしていました。
長慶は、応仁の乱以降、混乱する畿内で、将軍なしでも政治が成り立つことを証明したと言えます。
このように幕府を前提としない統治の在り方は、15代将軍・義昭を追放した織田信長にも一定の影響を与えたと考えられます。