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なぜ少年たちは英霊のごとく“祀られた”のか?鎮魂歌『真白き富士の根』と軍国主義の影

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なぜ祀り上げられたのか

さて、ところでこの事故は「記念物」が多く存在します。先述した記念像や『真白き富士の根』の歌、それに事故を題材にした映画や小説も存在します。

この事故は現代の視点で見れば若者の暴走事故のようなもので、ほとんど同情の余地はありません。

ところが『真白き富士の根』の歌詞や、記念像に添えられた文言などを見ると、この事故の犠牲者の少年たちは、まるで英霊のごとく祀り上げられています。

前途ある少年たちの悲劇の死であり、中には同行した小学生の弟をしっかり抱きかかえたまま亡くなっていた少年もいたそうで、そうした点が多くの人々の同情を誘ったというのもあるでしょう。

ただ、それ以外の時代背景も見逃せません。

『真白き富士の根』が初めてレコードリリースされたのは1915(大正4)年8月のことで、これは第一次世界大戦への日本参戦からおよそ一年後の出来事でした。

また、事故を題材に、歌と同じタイトルの映画も作成されていますが、これは1935(昭和10)年のことで、五・一五事件以降、日本が軍国主義色を強めていった中での上映だったのです。

ちなみに、二・二六事件で危うく難を逃れた岡田啓介は、開成中学校の前身である共立学校に在籍していました。映画が公開された1935(昭和10)年というのは、そんな彼が首相を務めていた時期のことでもあります。

こうした時代背景から、『真白き富士の根』の普及は、第一次世界大戦や五・一五事件後のナショナリズムの高揚と時期的に重なり、軍国主義的価値観と共鳴した可能性があります。

もちろん歌自体の意図は追悼であり、ナショナリズムを直接煽るものではなかったにせよ、時代の空気の中で両者が自然に結びついた部分はあったのではないでしょうか。

また、逗子開成中学校が海軍子弟のための学校であり、海軍と密接な関係があったことも影響したのかも知れませんね。

参考資料
事故災害研究室
画像:photoAC,Wikipedia

 

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