なぜ少年たちは英霊のごとく“祀られた”のか?鎮魂歌『真白き富士の根』と軍国主義の影:2ページ目
鎮魂歌の誕生
彼らの遭難が判明したのは14時頃のこと。イカ釣り船が、オールに掴まっていた少年の一人を発見したのがきっかけでした。
さっそく学校・警察・それに漁師たちが総出で残りの少年たちの捜索にあたります。逗子開成中学校は海軍子弟のための学校であり、横須賀鎮守府と密接な関係があったことから、学校の要請を受けて二隻の駆逐艦「吹雪」「霰」までもが出動しています。
しかし残念ながら、最初に救助された少年も含めて全員が帰らぬ人となりました。遺体が全て発見されたのは事故発生から四日後のことでした。
この年の2月6日には中学校で追悼の式典が営まれました。式典の際、冒頭で挙げた『真白き富士の根』が鎮魂歌として披露されたといわれています。
この歌の原曲となったものは、もともとはアメリカ人ジェレマイア・インガルスがイギリスの民謡を元に編曲した鎮魂歌でした。
それが日本で、1890(明治23)年刊行の『明治唱歌』において「夢の外(ゆめのほか)」として採用され、この唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』が作詞されたのです。これが『真白き富士の根』として知られることになりました。
この歌はその後、歌謡曲経由でキリスト教讃美歌としても採用されました。もともと歌詞にはキリスト教の影響がみられるということで、キリスト教的なイメージともマッチしたのでしょう。1915年にはレコードも発売されています。
その後の1964(昭和39)年、有志によって『ボート遭難の碑』と記念像が建てられました。
