
新選組最強は沖田じゃない!新選組隊士・永倉新八が最強の剣豪だったことを証明するエピソードを紹介
突然ですが「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」という言葉をご存知ですか。
この言葉は新選組隊士の阿部十郎が晩年に言ったもので、新選組の強さを現すものだそうです。これからわかるように新選組最強は沖田総司ではなく永倉新八(ながくらしんぱち)という意見もありました。
ということで今回は永倉新八が最強であったことを証明するエピソードをいくつか紹介します。
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これが最強の理由!とにかく我武者羅だった
新八は天保10年(1839)に生まれます。所属藩は松前藩ですが、生まれも育ちも江戸です。
7歳になると神道無念流の道場に入門し、剣術修業をします。剣術をある程度極めた新八はさらに剣術を極めるために脱藩します。脱藩した後は百合本塾で修業をし、やがて松前藩出身の市川宇八郎と共に剣術修行の旅をします。
関東一円の道場破りを行った新八は江戸に戻ると近藤勇が率いる試衛館の食客となり、その後の新選組では2番組組長を務めます。
元治元年(1864)に起きた池田屋事件では近藤勇や沖田総司ら共に池田屋に突入します。総司の体調不良や藤堂平助が負傷し組長格が相次いで動けない中、新八は左手薬指に負傷しつつ、防具や刀もボロボロになりながらも多くの浪士を倒していきました。
このような向う見ずで無茶苦茶に行動する我武者羅な性格により、新八は我武者羅と合わせて「がむしん」と呼ばれていました。
局長にも意見を言える胆力!
池田屋事件を機に新選組の名は京都中に知れ渡りました。また、局長である近藤はそれにあやかって段々傲慢になっていきました。
これに怒った新八は切腹覚悟で松平容保に近藤のことを訴えています。
この一件で新八は近藤との仲がさらに悪くなってしまいますが、命を顧みず上にも臆せず意見を言う新八の肝の据わりようが窺えます。
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