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【大河べらぼう】蔦重と松平定信(寺田心)の戦い勃発!?史実を基にストーリーの次なる局面を考察[後編]

【大河べらぼう】蔦重と松平定信(寺田心)の戦い勃発!?史実を基にストーリーの次なる局面を考察[後編]:3ページ目

度重なる弾圧を跳ねのける蔦重の挑戦

寛政の改革が始まってから3年後の1790年、松平定信は出版物に対する統制をさらに強化しました。

定信はその1年前、幕府の旗本・御家人救済を目的とする法令「棄捐令(きえんれい)」を発布しています。この法令は、幕臣たちが札差から借りた借金の一部を帳消しにするものであり、町民たちからは「幕臣だけを救うものだ」として不評を買いました。

定信は、庶民階級に対しても農村復興のための低金利での公金貸付や、関東圏の経済振興を目的とした資金貸付を行うなどの政策を実施していました。しかし、過度に厳しい政策を強いた反動もあり、これらの経済政策はあまり高く評価されなかったようです。

1790年の出版統制では、政権批判を含む時事ネタや風刺、恋愛・性愛を描く好色本、さらには華美な装丁を施した出版物などが禁止されました。

こうした統制に抗うように、蔦重は浮世絵師であり戯作者でもある山東京伝(古川雄大)と組み、3冊の洒落本を刊行します。

洒落本は、吉原などの遊里を題材とした小説で、”通”(つう)という美意識を主題に、遊女と客との駆け引きや、通人ぶる野暮な客を茶化す内容が特徴でしたが、そこには暗に松平定信の政治を批判する意図も込められていました。

これに対する幕府の動きは素早く、洒落本三部作を直ちに摘発し絶版としたうえで、作者の京伝には手鎖五十日の刑、蔦重には身代半減(財産の半分没収)という厳しい処分を下しました。

この弾圧により、蔦重は大きな打撃を受けますが、浮世絵の出版という新たな事業を立ち上げ、再び巻き返しを図ることとなります。

4ページ目 喜多川歌麿と東洲斎写楽の活躍

 

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