「凶賊」は実在した!強盗、殺傷、陵辱…江戸の町を震撼させた凶悪犯罪者、真刀徳次郎・葵小僧【前編】:2ページ目
徳川のご落胤を名乗る凶賊
『鬼平犯科帳』では、「本物の盗人(義賊に相当)」なら絶対に守るべき盗みの三ヶ条として「人を殺めぬこと、女を手込めにせぬこと、盗まれて難儀をする者へは手を出さぬこと」というものが登場します。
これを守っている犯罪者に対しては、長谷川平蔵は比較的寛容な姿勢で臨んでいます。
こうした意味で、「本物の盗人」とは対極に位置し、その凶悪さから『鬼平犯科帳』の中でもひときわ強烈なインパクトを残すのが葵小僧です。
この葵小僧は実在し、少女から大年増まで必ず陵辱するという凶悪な盗賊団でした。
松平定信の自伝『宇下人言』によると、寛政3年(1791)に一夜のうちに何軒も大店が襲われる被害が1~2ヶ月以上も続きます。
殺しや強姦を好んで行う、まさに鬼平犯科帳でいうところの「畜生働き」の凶賊だったのです。ちなみに強盗・強姦・殺人ですから、現代でも死刑か無期懲役はまず免れません。
そこで、火付盗賊改をはじめとする御先手組全36組が総動員され、厳戒態勢で葵小僧の捕縛作戦を展開。三つ葉葵の駕籠行列が通ったルート上の大店が被害に遭っていることが判明し、一味はことごとく捕らえられました。
葵小僧は徳川将軍のご落胤を自称して「葵丸」と名乗り、移動の際に徳川将軍家の三つ葉葵の御紋が入った立派な駕籠に乗り、徒士侍や中間(奉公人)を揃えた行列で移動していたのです。
