「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【前編】:2ページ目
江戸時代から観光名所になった益田岩船
明日香村には、この時代に活躍した人々が眠る高松塚や石舞台などの古墳、飛鳥寺などの寺院のほか、亀石や酒船石といった巨大な石造物が数多く存在します。
そうした巨大石造物の中でも最大とされるのが、橿原市ニュータウン内、白橿南小学校の西に位置する丘陵、通称「貝吹山」の東端斜面にある益田岩船です。
益田岩船は、その巨大さゆえに江戸時代から観光名所として知られ、1791年(寛政3年)に刊行された『大和名所図会』にも掲載されています。かつて益田岩船の近く、橿原市久米に朝廷により築かれた益田池という池がありました。同書では、この池の築造を讃える石碑の台座部分であるという説に基づき、「益田池碑趾」と記されています。
益田岩船は、東西約11m、南北約8m、高さ約5m、推定重量約160tから600tとされる巨大な岩石です。近くで見ると、その圧倒的な存在感に息を呑みます。
そんな益田岩船の正体については、さまざまな推測がなされてきました。
『大和名所図会』に記載されているように、弘仁13年(822年)に築造された益田池を讃えるため、弘法大師の書による石碑を載せる台として作られたが、後の高取城築城の際に破砕されたという説。
二つの穴に石柱を立て、その上に横柱を渡して天体観測を行ったとする、占星術用の観測台説。
松本清張が提唱した、ゾロアスター教徒の拝火台とする説。
穴の中に遺骨を納め、石の蓋をしたとする火葬墳墓説。
しかし、現在では同じ丘陵上の南東約500mに位置する牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の石室として使用される予定だったが、加工途中で放棄されたという説がほぼ確実とされています。
そして、牽牛子塚古墳こそ、斉明大王の真陵として目されているのです。

