この生き様、どう描く!?平賀源内の遺体を引き取った相棒・平秩東作(木村了)の男気あふれる生涯【大河べらぼう】:2ページ目
源内の死後、蝦夷地へ
平秩東作は狂歌にも才覚をあらわし、明和6年(1769年)に唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)が主催する狂歌会に参加。後には自身が中心となって狂歌アンソロジー『百鬼夜狂』を刊行するに至ります。
また安永2年(1773年)から翌安永3年(1774年)にかけて伊豆の天城山で炭焼き事業を手がけ、安永4年(1775年)には材木商を営みました。
次から次へと忙しい限りですが、いずれも軌道に乗ったのでしょうか。
そんな中でも平賀源内との関係は続きました。安永8年(1780年)に源内が獄死した際は、当局から睨まれるのを覚悟の上でその遺体を引き取ったと言います。
やがて天明3年(1783年)から天明4年(1784年)にかけて蝦夷地へ渡り、松前と江差に滞在した記録を『東遊記』にまとめました。
アイヌの風俗や蝦夷地の風土産物を紹介したことで評判となり、幕府が2度にわたる蝦夷地調査を行うキッカケになったと言います。
急度叱を受けた理由は?
蝦夷地から戻った平秩東作は相変わらず仕事に狂歌に忙しい日々を送っていました。
そんな天明6年(1786年)、幕府で勘定組頭を務めていた土山宗次郎(つちやま そうじろう)が公金横領の罪で失脚。逃亡していたところを、平秩東作は匿ってやります。
「何だって、公金に手をつけるなんてしたんだよ」
「誰袖(たがそで)を1,200両で身請けしたんだ。その身代金さ」
吉原遊廓でも当代一と誉れ高い大文字屋の誰袖(たがそで。劇中での役名は”かをり”)。現代の貨幣価値に直すと約1億2千万円(所説あり)という巨額の身請けでした。
そんな金で身請けしたって、彼女を幸せに出来るはずがない……果たして宗次郎は捕らわれ、斬首されてしまいます。
匿ってやった平秩東作も急度叱(きっとしかり。厳重注意)を受けたのでした。
