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箸墓古墳は”卑弥呼の墓”で決まりか?日本最大・最古クラスの古墳の秘密に最新学説が迫る【後編】

箸墓古墳は”卑弥呼の墓”で決まりか?日本最大・最古クラスの古墳の秘密に最新学説が迫る【後編】:2ページ目

邪馬台国の位置

箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年墓の築造年代と大接近したことで、いよいよ見えてきたのが邪馬台国の所在地です。

2009(平成21)年、纒向遺跡から3世紀前半の大型建物跡が発掘されました。その広さは南北12メートル、東西22・4メートル。国内最大級の建物跡です。

畿内説によれば、纒向遺跡は卑弥呼が住んでいた都の跡だと言います。ところが、邪馬台国の女王の都なのに、これまで宮殿のような大型建物跡が発見されていませんでした。

畿内説にとってこの大型建物跡は、箸墓古墳の築造年代と卑弥呼の没年の開き同様に弱点のひとつだったのです。

なので当然、畿内説の専門家や研究者は発見された大型建物跡を卑弥呼の居館と見ます。

それに対して九州説は、大型建物跡は九州からも発掘されており、それだけで邪馬台国の所在地とすることはできないと反論しています。

しかし、2014(平成26)年2月、奈良県桜井市教育委員会は、この大型建物跡のすぐ近く(36・5メートル東側)から建物跡が見つかったと発表しました。

この建物跡は、先に見つかっていた大型建物跡やその西側の小中規模の2つの建物跡などと同一線上に配置されていました。

今回発見された建物跡は南北6・7メートル、東西3・4メートル。先に見つかっている国内最大級の大型建物跡には及びませんが、専門家によれば「この時代では異例の広さ」だと言います。この発見により畿内説がより有力になったことは間違いないでしょう。

参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia

 

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