軟弱な武将だって!?あまりにも過小評価されている戦国最盛期を築いた名将・今川義元の生涯:2ページ目
軍事面での活躍
義元は武力を用いても領土を着実に拡大しました。特に、三河国では松平氏(後の徳川家康)を支配下に置き、尾張の織田信秀とも激戦を繰り広げました。
1548(天文17)年の小豆坂の戦いでは、雪斎を総大将とする今川軍が織田軍に大勝利を収め、三河の安定支配を確立しています。また、織田信秀の死後は尾張への進出を加速させ、領国の拡大を着実に進めました。
桶狭間の戦いと義元の最期
1560(永禄3)年、義元は約2万の大軍を率いて尾張国への侵攻を開始します。彼の軍勢は織田信長の守る砦を次々に攻略し、信長を追い詰めていました。しかし、桶狭間での本陣において、信長軍の奇襲を受け討死します。
この敗北は義元の評価を低下させる要因となりましたが、義元が輿に乗って移動したことや「油断していた」という説は後世の創作であり、信長の奇襲が極めて戦術的に優れていたことが主因とされています。