江戸時代「将軍」を一度も輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【後編】:2ページ目
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幕末の動乱と反徳川への歩み
尾張藩は14代目にしてようやく、尾張藩の支藩である高須藩から藩主慶勝を迎えることに成功する。これによって将軍家からの内部干渉を弱めることに成功した尾張藩。
藩主の慶勝は積極的に藩政に取り組み、幕府の政治を正そうとする動きを見せる。しかし、時の大老「井伊直弼」によって隠居・謹慎に追い込まれてしまう。尾張藩としては宗春以来2度目の藩主処罰だった(安政の大獄)。
その後、桜田門外の変を受け幕府の力は弱体化、慶勝は復権し、禁門の変では総督として長州藩征伐の指揮をとった。
新政府軍として徳川討伐へ
1867年の大政奉還によって江戸幕府が消滅すると、入れ替わる形で明治新政府が樹立。慶勝は政府内で官職につき反徳川の立場を取る。尾張藩の中には徳川養護の声もあったが、慶勝は厳しく断罪し、尾張藩を官軍として一枚岩にすることに成功した。
しかし、慶勝自身は徳川宗家を補助する意向も示しており、政治の主体は明治政府側の意向に賛同しながらも、同時に自身の母体である徳川家存続に尽力した。
慶勝の没後、19代当主「徳川義親」は尾張徳川家ゆかりの美術品や歴史的資料等の一般公開を行うために徳川黎明会を設立。
会長には尾張家の当主が就任する形で、現在でも尾張徳川家の歴史を後世に伝える活動を行っている。
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