美少年に惚れやすく…男色が災いし自家を滅亡まで追い込んだ戦国大名「蘆名盛隆」の恋バナ
日本における男色は仏教の広まりと同時に広まり、戦国時代になると非常に盛んになりました。男色は比較的相手を選び放題なので自由な恋愛ができる反面、三角関係や嫉妬によるもつれもありました。
江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった
先日の記事でも少し触れましたが、江戸時代の書物や浮世絵には女性同士の同性愛に関するものが少ないのに対し、男性同士に関するものは、当時の男色(男性同士の同性愛)の環境がどのようなものだったかを知るには事…
東北の戦国大名、蘆名盛隆(あしな-もりたか)は美少年に惚れやすいこともあってか数々のもつれを引き起こした大名です。
一体どのような愛憎劇が盛隆の周りで繰り広げられていたのでしょうか。
今回は盛隆が引き起こしたもつれを、生い立ちを含みつつ紹介していきます。
イケメンで敵に一目惚れされた盛隆
盛隆は二階堂氏の出身で人質の身でありながら、天正3年(1575)に蘆名盛氏(あしな-もりうじ)の養嗣子(家督を継ぐ養子)として蘆名氏を継ぎます。
なぜ人質だった盛隆が養嗣子となったのかというと、盛氏の子で当時の蘆名氏当主、蘆名盛興が嫡男を持たずに若くして病死してしまったことが要因でした。
蘆名氏には盛興の跡を継げる後継者がいなかったので、人質の盛隆に白羽の矢が立ったということです。
そのことから考えると盛隆は当主としての素質を持っていたと推測できます。
そして20歳を迎えた天正8年(1580)、養父の盛氏がなくなると蘆名氏18代目当主として本格的に実権を掌握しました。
盛隆はかなりのイケメンで知られ、坂東太郎の異名を持つ佐竹義重との戦中に義重が盛隆に一目惚れをしていまい、双方思いをつづった恋文を続けた結果、和睦したという逸話が残っています。