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会津藩のためなら命すら!幕末、烈女と呼ばれ「婦女隊」も結成した中野竹子の荒々しくも儚い生涯

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2024/09/07

婦女隊結成

慶応4年(1868)8月23日になると勢いに乗った新政府軍が、会津藩まで侵攻してきます。竹子は容保の義姉、照姫が坂下に避難している情報を聞き、照姫を護衛する名目で竹子の母や妹、門下生20人らと婦女隊を結成します。

婦女隊の隊士は全員斬髪し、女性の着物に袴で武器である薙刀をより振るいやすい服装をしていました。

婦女隊/Wikipediaより

しかし、照姫が坂下にいるのは誤情報で、実際は若松城にいました。戻るにしても城門が閉じられていたので竹子たちは戦うことを決意し、近くを通った萱野長修(かやの-ながはる)に従軍を願い出ます。

決死の覚悟が認められ

最初、長修は拒みますが従軍ができなければ自害するという決死の覚悟に押され、先鋒隊となる衝鋒隊(しょうほうたい)の一員として加えられました。

そして同年8月25日、衝鋒隊は若松城へ向かう途中の柳橋にて新政府軍と戦闘を行います。竹子は薙刀を振るい、新政府軍を圧倒していましたが、額に銃弾を受け22歳の若さ戦死しました。

敵に手柄を与えることを嫌っていたので、妹の手によって竹子は介錯され、首は味方の所へ届けらました。

最後に

会津の危機であるが故に婚約を破断したり、決死の覚悟で従軍を願い出たりとまさに烈女と呼ばれることに納得できる人生を歩んだ竹子。性格も男勝りだったので、当時の女性とは違う価値観で生きていたかと思います。

またこのような価値観を持つ方が時代を動かしていくので、若くして命を散らしてしまうのは生まれる時代が悪かったのかと考えてしまいます。

参考:井沢元彦『英傑の日本史 敗者たちの幕末維新編』

 

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