騎馬武者・徒武者の違い
戦国時代は、兵を効率的に動かすために、兵種別の部隊運用が確立した時代でした。
寄親・寄子制における寄親になるような重臣は、戦時ともなれば、あらかじめ決められている軍役に従い、寄子を引き連れて参陣することになります。
軍役は現代の累進課税のようなもので、石高に応じて、動員する軍勢や用意する武器の数が決まっていました。
だから、石高が多い家臣ほど、動員する軍勢や用意する武器の数も多くなります。
なお、動員されたすべての兵卒が馬に乗れたわけではなく、騎乗が許されたのは最低でも100石級の武士からです。騎乗を認められた騎馬武者以外は、徒歩で戦う徒武者でした。
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実際に戦闘に参加するのは騎馬武者と徒武者だけであり、このほか、兵糧や弾薬を運ぶ小荷駄の要員も、領内から随行していました。
「足軽」と「備(そなえ)」
戦国時代の末期に兵農分離が進むと、大名の家臣は専業武士となり、足軽が継続的に徴用されていきます。
こうして合戦では次第に、足軽が大量に動員された集団戦法が行われるようになりました。
もっとも、多くの足軽が勝手に動いては勝ちにくくなるばかりか、一部隊が敗走したときに総崩れになるおそれもあります。
軍勢の数が数千から数万に拡大するなか、鉄砲・弓・長鑓を持つ足軽、小荷駄などの部隊を、兵種に応じて規律ある組織にする必要が出てきました。こうして、戦時に組織された軍団の編成のことを「備(そなえ)」と呼びます。
備は、敵に近い方から先備・中備・旗本備・脇備・後備・殿備などといい、整然と並べられました。
ただし、備の編成は大名家ごとに異なっており、必ずしも基本的な形式が決まっていたというわけではありません。
それでも、一般的な傾向として、実際の戦闘になったときのことを想定して編成されるのが普通でした。