仙人に、おれはなる!大空を飛びたすぎて仙術修行にハマってしまった平安貴族・藤原友人の生涯:3ページ目
伊予親王の変以降
伊予親王のおじとして、これから出世が期待されようかという友人。しかし大同2年(807年)、中央で伊予親王が藤原宗成(むねなり)に陥れられる政変が発生しました(伊予親王の変)。
これによって伊予親王と母の吉子は幽閉されて服毒心中。大納言であった兄の雄友は伊予国へ流罪となってしまいます。
事件とは無関係であった友人も、とばっちりを受けて下野守(しもつけのかみ)に左遷されてしまいました。
国守は国司の長官だから、次官である播磨介から見ると出世のようにも思えます。
しかし播磨国は大国であるのに対して、下野国は1ランク下の上国。大国の次官であった方が、上国の長官よりも待遇はよかったようです。
このまま中央官界からフェイドアウトするかと思いきや、ほとぼりがさめたのか弘仁元年(810)には兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)として復帰します。
……從五位下藤原朝臣友人爲兵部少輔……
※『日本後紀』巻廿 弘仁元年(810年)9月16日条
兵部少輔は軍事分野を司る兵部省の次官(すけ。輔)で、兵部大輔と兵部少輔に分かれていました。
しかし翌弘仁2年(811年)には讃岐守(さぬきのかみ)として現地へ赴任。性格の悪さと礼儀知らずさが災いしたのでしょうか。
……從五位下藤原朝臣友人爲讃岐守……
※『日本後紀』巻廿一 弘仁2年(811年)5月14日条
その後は相模守(さがみのかみ)・従四位下(じゅしいのげ)まで昇進し、弘仁13年(822年)に56歳で卒去したのでした。
終わりに
……相模守從四位下藤原朝臣友人卒。右大臣從一位是公之男、從三位乙麻呂之孫。爲人■々不護禮度。雖好仙道、控地不登。大同之初、縁坐伊豫親王事、左降下野國守。弘仁年中、有恩入京、授從四位下、俄任相模守。病發卒官。年五十六。
※『日本後紀』弘仁13年(822年)8月16日条
【意訳】相模守で従四位下の藤原朝臣友人が卒去した。右大臣で従一位の藤原是公の息子で、従三位の藤原乙麻呂の孫である。人となりはアレで礼節を守らなかった。仙道を好んだが、天を舞うことはなかった。大同年間のはじめ、伊予親王の事に連座して下野守に左遷される。弘仁年間に入って恩赦を受けて再び京に入った。従四位下を授かり、にわかに相模守に任官する。病を発して官を辞し、56歳で世を去った。
今回は空を飛びたかった平安貴族・藤原友人の生涯をたどってきました。性格の悪さは、自分の生まれから前途を悲観したor周囲からイジメられたせいかもしれませんね。
友人が仙術修行にハマったのは、人智を越えた力で閉塞感を打破したかった思いの表れとも考えられないでしょうか。
空を飛ぶ以外にも仙術修行を試してみたのか、記録があればぜひ知りたいですね。
※参考文献:
- 森田悌『日本後紀 中 全現代語訳』講談社学術文庫、2006年11月
- 森田悌『日本後紀 下 全現代語訳』講談社学術文庫、2007年2月