詮子と倫子の暗躍?なぜ定子は出家?長徳の変、時系列おさらい…大河ドラマ「光る君へ」5月19日放送振り返り:2ページ目
血の涙を流した?為時……実際のところは
苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼……。
【意訳】寒い夜も学問に励み、血の涙を流してきました。除目の朝、淡路守という辞令に絶望して呆然と青空を見上げるばかりです。
劇中では淡路守さえ望外の願いと思っていたのに、娘の偽筆によってまさか越前守となった為時。
実際には長徳2年(996年)1月25日に淡路守の辞令が下るも、為時はこれに抗議。これが聞き入れられて、1月28日に越前守となったのでした。
まさにゴネ得と言ったところ。こんなの許されるのか?と思ってしまいますね。
ちなみに越前守が内定していた源国盛(森田甘路)は任官を取り消され、ショックの余り病に倒れてしまいました。
秋の除目で播磨守に任じられたものの体調は回復せず、そのまま息絶えてしまったということです。可哀想に……。
ちなみに劇中では「母上『は』聡明な方」ということになっていましたが、国盛の母親は不明です。
呪詛「大元帥法」とは?
劇中では高階成忠(なりただ。高階貴子の父)が行ったという大元帥(だいげんのほう)。どうやら呪詛の一種みたいですが、これはどんなものなのでしょうか。
大元帥法は承和6年(839年)に唐から法林寺へ伝来した呪法で、大元帥明王(だいげんすいみょうおう)に敵国や謀叛の調伏を祈願するものでした。
その性質上、大元帥法は国家を統治する朝廷のみが行うべきものであり、臣下がこれを行うことは許されていません。
しかし長徳2年(996年)4月1日に法林寺から朝廷へ通報があり、伊周が密かに大元帥法を行ったというのです。
国家の権利を侵すとはとんでもない話ですが、大元帥法って寺の許可なくこっそり勝手にできてしまうものなのでしょうか。
具体的な方法についてはよく分かりませんが、伊周たちがフラッと訪れて気軽にできるものではないため、誰か関係者が指導したのだと思われます。
ちなみに大元帥法は後世にも受け継がれ、明治時代の日露戦争や、昭和時代の大東亜戦争(太平洋戦争)でも行われたとか。
その方法や効果のほどについて、詳しく知りたいですね。
なお高階成忠が大元帥法を行ったという話はなく、また出家していたため孫たちの連座を免れたのでした。