長寿を全うした『光る君へ』の主要キャラたち!「源氏物語」完成後の紫式部の消息は?何歳まで生きた?:3ページ目
その後の式部の消息は?
さて、ところでこうして『源氏物語』が日の目を見て、その後の紫式部はどのように生きたのでしょうか。
彰子の女房として仕えた紫式部の動静を伝える『紫式部日記』は、敦成親王誕生を主とする「前半記録体部分」、と、清少納言・和泉式部などの批評や自身の生い立ち、心境などを綴った「消息体部分」、そして年月日が記されていない「年次不明部分」、彰子の第二子・敦良親王誕生を主とする「後半記録体部分」に分類されます。
この「後半記録体部分」はごく短いもので、寛弘7 (1010)年元日から1月15日までの記録です。残念ながら『紫式部日記』を参考に、この後の紫式部の確実な消息を突き詰めるのは難しそうです。
ただ、ほぼ確実と思われるのは、少なくとも長和2(1013)年5月26日まで、彼女は彰子に仕えていたということです。
この日、藤原実資という公卿が養子の資平を彰子のもとに遣わしたところ、「越後守為時の女」が取り次いだと記録されているのです。
この記述がある実資の日記『小右記』には、名前は出ていないものの紫式部と思われる女房が寛仁3(1019)年正月5日にも取次役として登場していることを確認しています。
この見方が正しければ、式部は少なくとも60歳くらいまでは生きていたことになります。
またある研究者は、紫式部が寛仁(1017〜1021)や治安 (1021~1024)、万寿(1024~1028)、長元(1028~1037)年間まで存命し、宮廷に出仕していた可能性も十分あると述べています。
仮に、各元号の最終年に亡くなった場合の享年は、寛仁で52、治安で556万寿で3、長元で68くらいと考えられます。
ちなみに、平安貴族の平均寿命は男性が33歳、女性が27歳くらいだったという推計がありますが、藤原道長は60歳、彰子は36歳という長寿を全うしています。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)